苦しいこと、つらいことがあっても、神など考えずに、うまく紛らせて生きたらそれでいいではないか。
いや~、その通り。ほとんどの人はその通り生きています。苦しみがない人はいませんから、多くの人が紛らし・気晴らしに生きています。それが人生である、といった誤まった生き方すらあるようです。しかし、気晴らし・紛らしはその人に問題点を見させないようにしてしまうのです。
パスカルは『パンセ』の中で語っています。「悲惨。・・・我々の悲惨を慰めてくれる唯一のものは気晴らしである。とはいえ、それこそ、我々の悲惨のうちで最大の悲惨である。なぜなら、それが我々に自己自身のことを考えさせないようにさせ、我々を知らず知らずのうちに滅びに至らせるからである。・・・気晴らしは我々を楽しませ、知らず知らずのうちに我々を死に至らせる」
苦しいこと、つらいことは、神が人に問題を提起して、その生き方や言動に警告を与え、少なくとも、十分に向き合って考えるよう契機を与えているのです。そのことに気付かず、深く掘り下げて考えることをしないようにしてしまうのが気晴らしであって、せっかくの機会を棒に振ってしまう“もったいない生き方”であるといえましょう。
もし、苦しいこと、つらいことがあったとき、それから目を離さず、人生における悲惨さとその背後にあるこの世の人生の意味を掘り返すなら、人の存在意味や目的、永遠的なもの(すなわちキリストとその福音)に思い至ることもあるのではないでしょうか。
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