みんな大なり小なり悪いことをして生きている。同じだ。うまく立ち回った者が勝ちだ。神はすべてを罰しはしない。運悪く見つかってしまえば(仕方がない)諦めたらいい。
人は誰も、心の中の罪など、無意識のうちに犯してしまうものが多い。行いについても、つい道徳を忘れて、いつの間にか犯してしまう場合が少なくありません。加えて、時には意識的な罪・悪事をあえてする場合もないわけではありません。人間たる者、立派だと自認していても、程度の差・大小の差はあれ、みな罪を犯しがちなわけです。ですから、だれも神の目を意識し、正しく生きるよう努めねばなりません。
人が罪を犯すなら、神は義の神ですから、正義に反することや悪事を何もせずに見逃すことはありません。それが大原則です。その中で、時にはすぐに罰することもありますが、それはその人の悔い改めに結びつく可能性がありますから、何も罰されないよりはいいことであろうと思われます。
他方で、神は当面何もせず、ただ見ているだけ、放っておかれる場合も多いのです。大部分の場合はこのケースです。それは、人が今は見込みがないけれど、死までのいつか悔い改めるのを待っておられるのです。それを誤まって受け止め「神は何もしないんだ」と考えるなら、大間違いなのです。自分では得心して、成功だと思っても、とんでもない失敗なのです。
神は、最後の審判では必ず裁かれるのです。「その時は諦める」と言えるほど生易しいものではありません。悲惨な、悲惨な境遇・ゲヘナに入れられるのです。その時になっていくら後悔してもどうにもならない、いくら泣き叫んでもどうにもなりません。ですから、それまでによほど徹底して悔い改め、キリストを信じて、赦(ゆる)していただかなくてはなりません。
神は公義の神です。ずるく立ち回る人を見逃すことは決してありません。その時のために、今悔い改めてキリストによる罪の赦しを得ておくに限るのです。
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