人生がむなしく感じられて仕方がない。どうすればいいのか。
“むなしい”とは「空しい」とも「虚しい」とも書きますが、両方足すと「空虚」です。その意味は「ない」ということです。そのように、このむなしさは“ない”というところから生じます。
人生の意味を感じられ“ない”、成果が発生し“ない”、したことが後に残ら“ない”。いずれすべてが“なくなってしまう”。究極のむなしさは、死んでそれで終わり、今までしてきたこと、積み上げてきたことがすべて消えてしまって何も残らない、というところにあります。
日本は昔から「もののあはれ」という言葉でこのことを表現してきました。日本の文学は大体においてこのむなしさ感が底流にあります。平家物語の冒頭は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とのむなしさ感から始まります。方丈記の冒頭も「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」と、流れ去るところに無常観を感じているわけです。
これらの背景にある仏教は、その旗印である四法印の第一に「諸行無常」を挙げ、この世のすべてのものが移り行き、永続しないことを“苦”として捉えています。そうです、むなしさは苦なんです。しかし、それを真に克服するものを仏教は持っていません。だから、仏教徒たる日本人はむなしさを脱却できないのではないでしょうか。
むなしさに襲われたときどうしたらよいのか、皆それなりに考えます。多くの人はむなしさを紛らせるもの、すなわち気晴らしになるものを求めます。例えば、庶民はパチンコ、お年寄りはテレビや碁、人によっては趣味・旅行・スポーツなど、時には仕事すらも気晴らしでやっている人がいます。少しでも熱中できるものを探すのです。一時的にはそれに成功するでしょうが、根本的な解決にはなりません。フッとした瞬間むなしさが顔を出すのです。
むなしさを解決するには、原点に返って考える必要があります。「ない」ということが原因なのですから、‟ある”ようにすることがポイントです。人生に意味がある、目的がある、行き先があるということ。流れ去って何も残らないのではなく、きちんと成果があるということ。まかり間違えばマイナスの成果もあるということを知ることが大切です。単に知る以上に、それに生きることが要諦です。
踏み込んで言うと、神が私を意味・目的を持って生まれさせていること、その意味とは、この世で快楽を尽くしたり、成功して喝采を博することではなく、片隅で苦しんで生きようとも、神を信じて生きることです。それによって人は神の子とされ、いずれ天の御国に迎えられ、永遠のいのちを頂くことです。
このような目的に生きる人生は必ず、良い意味の努力の人生になり、天に宝を積もうとする人生になります。それは、死んでそれで終わりでなく、喜び・充実のいのちにつながります。地上の人生の歩みは聖霊の神に導かれ、熱と力と希望を与えられ、むなしさを乗り越えさせます。
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