問題の解決に取り組むのに二つの心構えがある。一つは、「積極的な前向きの心構え」であり、もう一つは、「消極的な後ろ向きの心構え」である。この心構え次第で結果が大きく違ってくる。
自分に関係して問題が生じたときに、通常はそれをネガティブにとらえてしまう。問題が自分が原因で生じたときは自分を責め、他人が原因で生じたときは他人を責め立てる。自分が原因であるにもかかわらず、自分を責めないで他人のせいにして責任を転嫁することもよくある。問題をネガティブにとらえることによって、かえって問題の解決をはばみ、時にはこれをもっとこじらせてしまうことが多い。
ポジティブ・シンキング
これに対して、問題をポジティブにとらえることができるならば、問題解決の可能性がはるかに高まるであろうことは、誰にでも理解できる。積極的な前向きの心構えのことを一般には、「プラス思考」とか「ポジティブ・シンキング」(積極思考)と言い、問題解決の有力な心理的技法とされている。
この思考法はもともと聖書から導き出されたものである。天地万物を創造された神は、創造的、積極的、前向きなお方であり、その同じ性質が、神によって造られた人間にも与えられている。けれども、神に背いてるために、人は破壊的、否定的、後ろ向きな人格を形成してしまっている。
聖書は、イエス・キリストを信じることによって、私たちは心の内側から新しくされて、もとの創造的、積極的、前向きの人格を回復できると、教えている。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」と、神は私たちに求めている(1テサロニケ5:16〜18)。神は私たちに不可能なことを求めるはずがない。だから、どんな状況においても、ポジティブに生きられるはずなのである。
問題の原因は罪にある
いじめ、親子の争い、離婚、盗み、自殺、殺人、労使紛争、倒産、戦争、等々、毎日の新聞、テレビの報道は、いやな問題に埋め尽くされている。
聖書には、「神は愛である」と書かれている。天地万物の創造主であり、全知全能なる神の本質が愛であるなら、なぜ世の中には、いろいろな問題があるのであろうか。
神は人に自由に考え、自由に選択できる自由意志を与えた。人は神に従うこともできるし、神に背くこともできる。聖書では、神に背くことを「罪」という。人に自由意志がなければ、奴隷でありロボットである。そこからは、お互いに愛し合うという最も貴重な関係は生まれない。自由意志こそは愛の本質である。だから神は人の自由意志を拘束することは決してしない。
それゆえに、神は人が自由意志によって神に背くことを許される。そして人の罪によって問題が生じることを許される。それは、問題の原因が人の罪にあることを自ら悟るためである。事実、ほとんどの問題は人の罪によって生じているのである。
だが、さまざまな問題に苦しんで、人の罪の奥深さを悟る時、神に助けを求めざるを得なくなる。そうすると神と出会うことができる。なぜなら神はご自身を求める者に現れてくださるからである。「私は何でもできる。私には神など必要ない」と思っている限り、神と出会うことはない。
仕事・職業の存在価値
そもそも、あらゆる仕事や職業は、問題を解決するためにある。弁護士は人々の「法律問題」を、医師は「病気という問題」を、牧師は「霊魂にかかわる問題」を解決するためにある。政治家は「政治問題」を、公務員は「行政問題」を、教育者は「教育問題」を解決するためにある。「金融問題」の解決のために銀行があり、「物資の流通問題」の解決のために各種の商事会社がある。
このように、問題を解決するために、いろいろな仕事や職業が生み出されているわけである。要するに、「問題」は「仕事・職業の存在価値」という「益」をもたらしている。「問題」を解決するために、「人々がお互いに助け合い、協力し合って生きていく」という「益」が生み出されている。だから、あらゆる問題をポジティブにとらえるべきなのである。
神に出会うチャンス(最大の益)
私たちが生きていく過程において、問題は次から次へと生じてくる。やがては人の助けやお金の力ではどうにもならないような問題に押しつぶされそうになる。そしてついに、「神がおられるなら、どうか助けて下さい!」と心から叫ぶようになる。
多くの人々がこのようにして、神に出会ってきた。私もその一人である。この世に失望し、自分に絶望したときは、本当の希望は神にしかないことを悟る絶好のチャンスである。人生の最悪事態にも、このように大きな恵みが用意されているのである。
問題のもたらす最大の益は、「天地万物の創造主なる神に出会うチャンスを生み出す」ということにある。実に私たちがこの世に生きる最大の目的は、「神に出会う」ことなのである。そして、「神とともに永遠に生きる」ことなのである。全知全能の絶対者なる神と出会うことによって、人生の根本問題(不安、むなしさ、無力)は、その本質的な意味において解決されてしまう。
大いなる楽観
かつて一高生、藤村操は人生に悩んで哲学を追求した結果、「大いなる悲観は大いなる楽観に通ず」という言葉を遺して、華厳の滝に飛び込んだと言われている。しかし、本当に大いなる楽観を得たならば、自殺するはずがない。生けるまことの神との生き生きとした人格的交流のない、単なる観念的哲学には究極的な救いはないのである。
私たちは天地万物の創造主なる神と結ばれてはじめて、真の意味での「大いなる楽観」を持つことができる。なぜなら、肉体の死を超えて生きる「永遠のいのち」をいただくことができるからである。そればかりか、この世においても、あらゆる問題を「益」としてもらえるのである(ローマ8:28)。さらに、「私たちは耐えられないような試練にあうことはなく、試練の中にはそれを逃れる道も用意されている」と、聖書には約束されている。また、「神を信じることによって、どんな問題でも解決する力と知恵と愛が与えられる」とも書かれている。
このようにして、いかなる状況にあっても、喜びと祈りと感謝をもって生きることができる。あらゆる問題を、それが益とされることを信じて、積極的な前向きの態度で解決していくことができるのである。
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。