ある人が、老人の生理と心理を次のようにいった。
「しわがよる、ホクロができる、腰まがる。頭はボケる、ヒゲ白くなる。
手はふるえる、足はよろつく、歯はぬける。耳は聞こえず目もうとくなる。
身に添うは、頭巾、えり巻き、つえ、めがね、ゆたんぽ、かいろ、しびん、孫の手」
「聞きたがる、死にとうながる、さびしがる。心のまがる、欲ぶかくなる。
くどくなる、気短になる、ぐちになる。でしゃばりたがる、世話やきたがる。
またしても、同じ話に子をほめる。達者じまんに人はいやがる」と。
自分はまだ若いから大丈夫と思っても、五十歳でもうだいぶ当たり、六十歳ならほとんどが当てはまろう。
またある人が、老年とは「喪失の時代だ」といった。悲しいけれど、若さを失い、体力を失い、職を失い、収入を失い、楽しみを失う。妻や夫まで失って最後にはいのちまで失う。そのうえ愛も感動も、慎みも失って、いぎたなく生きるのが老年期か。
違う! 老年期はそんなうすぎたないものと違う!
むしろ光り輝く素晴らしいものだ。私みたいなつまらぬ人間でも、ほんの少し精神的に生きてきただけで、年をとってからのほうが、人生万事素晴らしいのだ。昔十年かかったことが一年でできる、かけずりまわってできなかったことでも電話一本でカタがつく。同じ話をしても聞く人の姿勢が違う。同じ一日でさえも密度が違う!
体が衰えてみてはじめて、魂が人間なのだということがわかる。肉体の美しさが去って、はじめて心の美しさがわかる。バラよりも、老松のほうが美しいことがわかる。肉体だけが資本なら、四十歳はもう年寄りだが、精神が資本なら六十歳はまだ少年の域を出ない。私みたいな宗教家の端くれでさえそうだから、ほんとに精神生活をした人の晩年はどんなだろう。
「わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っている。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう」―使徒パウロ―
年をとったら、自分を楽しませることしかしなかった人と、人を喜ばせることを心がけた人の差が、はっきりと出る。
楽しみは肉体的だが、喜びは精神のものだ。年齢には関係がない。
(中国新聞 1982年8月24日掲載)
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