不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(76)
全世界的にレントである。久しぶりに東西教会が同じ日に復活祭を迎える。「お宅はいつですか」と聞かれることもないので、それはそれでうれしい限りである。
さて、昨年であったか、日本ではLGBT理解増進法と呼ばれる法律が施行された。レズビアン(L)、ゲイ(G)、バイセクシャル(B)などの性指向を持つ、あるいはこれらの性行動をする人は、性的少数者と呼ばれる。多数者ではない。故に少なからず差別的な扱いを受けてきたと思う。
日本のキリスト教界においては、昨年は少なからず、LGBTが「罪に当たるかどうか」ということが話題になることが多かったように思う。
「T」と表現されるトランスジェンダーが罪かどうかは、議論する必要はないようにも思える。なぜなら、トランスジェンダーは性指向や性行動を意味するものではなく、医学的には心と体の性的不一致であり、実際は言葉で説明するほど単純ではないだろう。要するに単純に「T」という頭文字だけで表現し得ない事柄だ。
私が問いたいのは、性的な事柄について、「罪」という枠組みであれこれと語り得るのかどうかである。これはクリスチャントゥデイの記事やコラムでもいくらかは論じられていた問題であると思うが、やはり私にはピンとこない。
LGBが罪かどうかをキリスト教界の中で発信すると、めちゃくちゃ痛い目に遭うようだが、まあ、それはよい。罪であると言おうが、罪ではないと言おうが、どっちにしても話題にするなら、少なからず炎上はするだろう。私自身は性的な事柄と「罪」を関連させる気はあまりない。そもそも他人様の性指向というか、性行動にいちいち文句を言う気もなければ、理解する気もない。政府から「理解を増進すべし」と言われるのは、正直なところ不愉快なのだが・・・。
さて、私が何者であるのかを表現するとき、それが一様になることはあり得ない。思考的に、指向的に、あるいは嗜好(しこう)的に、もちろん身体的に、社会的に、加えるなら性に関する事柄においても、私が何者であるのかは、いろいろと表現できるであろう。
思考的には「罪」が存在するし、嗜好的にももちろん「罪」がある。その他諸々に「罪」があるのは、私自身については自覚している。私という人間のある側面から何か一つを抜き出して、「それは罪だ」と言われたら面白くはない。かといって、何であれ私は罪人である。キリスト教の教えに反するから罪人なのではなく、存在そのものが足の先から頭の先まで罪人なのである。しかし、その部分部分を抜き出して「これがお前の罪だ」と言われるならば、それは大きなお世話である。
このような屁理屈を述べつつ、LGBが罪であるかどうかを論じてはいけないのではあるが、正直なところ、性という事柄によって人を「ああだ、こうだ」と判断する気にはならない。それでも一応は、LGBは罪であると言っておく。なぜなら、人間のどのような思考や行動にも、結局のところ「罪」が伴うからだ。いわゆる異性愛という、ノーマルであり、性的多数者といわれる側にも大いに罪があるのだ。兄弟姉妹を裁くのは控えた方がよいのではないか。
前置きが長くなったが、レント期間中でもあるから、自分自身を大いに含めて人間の罪について語ってみたいと思う。その一つの例として、上記のように性の問題について論じただけだ。
さて、今回のコラムの主題は、イエスを裏切ったと思われる使徒ペテロにはどういう「罪」があったのかである。私はもともと「親ガチャ」プロテスタントなので、罪人の代表といえば、イエスを裏切って逃げ出したペトロであるという教えというか、刷り込みがある。逆に言えば、人間の罪を語るならば、まずは「ペトロから」ということになる。
これは大脱線なのだが、カトリック教会の教皇は、かのペトロの座を継承しているということになる。私から見れば、何でわざわざ罪深いペトロの後継者を名乗るのか、と考えてしまう。まあ、それがプロテスタントで育った人間の思考なのだ。
「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」(マルコ14:30)。イエスの突き刺さるような言葉を前に、ペトロは何を思っただろうか。私自身はイエスを裏切り続けてきたので、そのこと自体は私の人生の一部になってしまった。あまりにも慣れ過ぎて今や痛みすら感じない。何とも情けない話である。これこそがパーフェクトな罪なのであろう。
正教会の教えに従えば、われわれ人間はしばしば罪を犯す傾向にある。罪を犯すというのは、天地創造の時に神から頂いた「神の似姿」を失っているということである。これまたわれわれ人間には、いろいろな姿があると思うが、神の似姿を失っているという事実を前にしたら、われわれのそれ以外の側面というのは取るに足らないものであろう。
かつて神の似姿をまとっていた人間、その時の記憶というのはわれわれに残っているのだろうか。もしかしたら、己の罪を憂い、心を痛める瞬間があるなら、それこそが神の似姿をまとっていた頃の記憶なのかもしれない。
「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マルコ14:31)とペトロは言った。にもかかわらず、イエスの予告が見事に実現し、やがてペトロはイエスを知らないとまで言い切った。そういう結末を知っているからこそ、われわれにはペトロが大罪を犯したと考えてしまう。ペトロが大見得を切らず、静かにイエスから離れていったならば、われわれはペトロがそれほどにひどい人物であったとは言わないだろう。それでも私が言いたいのは、弟子の中で一番罪深いと語られるペトロであるが故に、全ての信仰者から深く愛され続けているということである。(続く)
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