不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(75)
※ 前回「聖地があるなら行ってみたい(その1)」から続く。
「祭司長たちや律法学者たちが、長老たちと一緒に」イエスに近づいてきた。それは、イエスが神殿に入って民衆に福音を告げ知らせていたときのことであった。祭司長たちは明らかに神殿側の人間であり、彼らにとってイエスは相当に部外者であったろう。前回書いたように、そもそもこの場面の前に、イエスは神殿で商売をしていた人々を追い出していたわけで、その時に祭司長たちはイエスに殺意を抱き、殺そうとしたことが、はっきりと記されている。しかし、彼らは民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたため、どうすることもできなかったのである。
ここで私が気になるのは、民衆とはどういう人々のことであったのかという点である。これは想像するしかないのであるが、民衆とはエルサレムの住民だけに限られるものではないと考えられる。イエスがエルサレムに来たのは過越(すぎこし)の祭りの時である。この祭りは出エジプトに起源のある祭りであり、ユダヤ人にとっては最も大切な行事である。エジプトで奴隷となっていたところを、神が救い出し、故郷に導いてくださったという、まさにイスラエル・ユダヤ民族の誇りとすべき出来事の記念である。
この祭りに参加するために神殿を訪れるのは、ユダヤだけではなく、地中海世界で生活をしているイスラエルの末裔(まつえい)たちも含まれていたのである。そのような人々の中には、普段の生活ではギリシャ語やラテン語、またアラブやペルシャの言葉を話す人々がいた。彼らにとってイエスが話す言葉は、遠い祖先の言葉であったかもしれないが、全くなじみのない言葉ではなかったはずだ。
つまり、何が言いたいかというと、イエスが福音を告げ知らせた相手というのは、エルサレムの住民だけではない、民族の祖アブラハムの末裔たちなのだ。イエスは聖書の解説をしたのではない。それは律法学者の仕事だ。イエスは福音を告げ知らせたのである。それが大事だ。
一方で、祭司長たちはイエスに「権威」を問うた。当たり前のことである。「あなたは何の権利があって私を非難するのか」という言葉は、われわれもまた人生を通して幾度か口にしてきたであろう。とはいえ、祭司長たちが問うたのはイエスの言葉に対してではない。その行動に対してだった。「自分たちの神殿(まあ、そういう感覚は分からないでもない)で、何ということをしてくれたのか。そして今日もまた、何ということをしてくれるのか」と思っていたに違いない。
そう、そこが神殿でなければ、イエスが商売人をどこへ追い出そうが、誰に何を話そうが関係なく、たとえ殺意が芽生えたとしても、まさか実行までには及ばなかったであろう。しかし、彼らは最終的に、殺意を実行に移したのだ。
われわれは、ローマ人がイエスを殺したと思っているかもしれないし、私もついついそう思いがちだ。しかし、イエスを殺したのは、イエスの権威を問うた人々であることを忘れてはならない。神殿から商売人を追い出し、神殿で福音を告げ知らせたイエスを、彼らは殺したのである。イエスは、ゴルゴダの丘に立てられた十字架の上で死んだ。しかし、祭司長たちは神殿の中にいるイエスを見て殺害を決意したのだ。
イエスは祭司長たちから「権威」を問われた。しかし、結局のところ、イエスは「何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい」と述べ、具体的には答えなかった。だから私も、イエスが何の権威で神殿から商売人を追い出し、神殿で福音を告げ知らせたのかは問わない。それを問うことは結局のところ、祭司長たちと同じ立場に立つことになるのではないかと、恐れを感じているからだ。とてもじゃないが、それこそ私には、そんな権利はないのだ。
私の母は聖地に行きたいと願い、兄と共にイスラエル旅行をした。その時の様子はあまり聞いていない。私も聖地に行きたいと願っている。しかし、それはイスラエルではない。私が行きたい聖地とは、イエス・キリストが私に福音を告げ知らせてくれる場所だ。恐らく、私はそれがどこかを知っているが、残念なことに、本当にそこに自分が立っているのかどうか自信がない。それでも可能な限り、私は私が信じる聖地に向かおうと思う。(終わり)
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