1. 愛のうち
愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。(2ヨハネ1:6、7)
「神の命令とは・・・キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです」(1ヨハネ3:23)
「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです」(1コリント15:32)
ギリシャ語原典と引用聖句を用いて[6節]を解くと、「互いに愛し合うとは、御父の命令に従って御子キリストが命じた通りに、神の愛のうちを歩むことです」となります。
また、[7節]を解くと、「なぜなら、惑わす者がクリスチャンから大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は、イエス・キリストが人として来たのでなく単なる預言者で、だから死者の復活がない、ただの宗教だから『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしよう』と教えるニセ教師、惑わす者であり、反キリストです」となります。
聖書全体の御父の命令に従うことは、今の時代ではキリストの教えに従い、互いに愛し合うことです。そのイエス・キリストは、人として来られた神の御子です。私たちは、十字架で死なれた神の愛のうちを歩むのです。
2. キリストの教えのうち
よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。(2ヨハネ1:8、9)
「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです」(1ヨハネ3:24)
ギリシャ語原典と引用聖句で[8節]を解くと、「迫害の中でキリストの福音を伝えた奉仕者たちの労苦の実を破壊するような、聖書に反する言動によく気を付けて、天からの豊かな報いを受けるようになりなさい」となります。
[9節]を解くと、「クリスチャンのどんな立場の人でも、聖書に反する行き過ぎをして、神の命令を守らず、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。キリストの教えのうちにとどまっている者は、神が私たちのうちにおられると御霊によって知るのであり、御父をも御子をも持っています」となります。
キリストの教えのうちにとどまる者は、神の愛のうちを歩む者で、聖書に反することをせず、互いに愛し合う者です。その人は、天の豊かな報いを神から受けるようになります。
3. 悪い行い
あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。(2ヨハネ1:10、11)
「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます」(1コリント15:33)
ギリシャ語原典と引用聖句で解くと、「あなたがたのところに来るクリスチャンで、キリストの教えのうちにとどまらない者を、友として受け入れることも、あいさつの言葉をかけることもいけません。なぜなら、彼へのあいさつの言葉が、彼の悪い行いを助けて、私たちも悪い行いを共にすることになるからです」となります。
私たちには気を付けるべき霊的な交わりがあって、キリストの教えに不忠実な者を友として受け入れることも、励ましのあいさつをすることもいけないとあります。良い習慣がそこなわれ、悪い行いを共にすることになるからです。
まとめ
聖書は、天地万物の主である御父と、救い主である御子イエス・キリストと、もう一人の助け主である真理の御霊によって世に書き送られた、神からの福音の言葉です。
イエス・キリストを信じ、神の命令に従う者たちを、神の民とし、キリストの弟子とし、神の子とすることで、約束の御国を相続させるために、神により聖書が世の人々に書き送られました。
御父の命令は、人として来られた御子イエス・キリストの命令に従うことです。キリストの教えのうちにとどまり、互いに愛し合う人たちは神のうちにおり、御霊が与えられることで神も私たちのうちにおられます。
ただし、キリストの教えに不忠実な者を受け入れたり、励ましのあいさつをしたりするなら、その悪い行いのうちにいることになり、良い習慣がそこなわれ、悪い行いの友となることを私たちは知る必要があります。
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