1. 御子を信じる者
神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。(1ヨハネ5:10、11)
「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです」(1ヨハネ5:6)
「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(ローマ8:2)
これらの御言葉から[10節]を解くと、「神の御子キリストを信じる者は、罪で汚れた私たちを清めるための御言葉の水と、私たちの罪のために流される贖(あがな)いの血とをもってイエス・キリストが世に来られたという真理の御霊の証しを、自分の心の中に持っています。故に、神を信じない者は、この御子について証しされたことを信じないので、神を偽り者とするのです」となります。
[11節]を解くと、「イエス・キリストが御言葉の水と贖いの血とによって来られた方であることの証しとは、いのちの御霊により、御子を信じる私たちに永遠のいのちが与えられたということと、永遠のいのちが御子のうちにあるということです」となります。
2. 御子を持つ者
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(1ヨハネ5:12、13)
「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません』」(ヨハネ11:25、26)
「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」(1ヨハネ4:13)
これらの御言葉から[12節]を解くと、「御子を信じ、御言葉に聞き従う者に、神はいのちの御霊を与え、それによって御子を持つ者は、死ぬことがなく、永遠のいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」となります。
[13節]を解くと、「ヨハネが手紙を書き送った理由は、御子の名を信じているあなたがたに、神はいのちの御霊を与え、御子を持つ者とし、これによってあなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによく分からせるためです」となります。
3. 永遠のいのちへの願い
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(1ヨハネ5:14、15)
「だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(マルコ11:23、24)
[14節]の解き明かしの引用聖句は、1ヨハネ5章全体になります。解き明かすと「①真理の御霊と②御言葉の水、③罪の贖いの血、という3つが1つとなって来られたイエス・キリストに対し、私たちが御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるのであり、①真理を下さり、②清めの御言葉を下さり、③罪の赦(ゆる)しを下さり、日々新しくされ、私たちは永遠のいのちを持っていると確信するのです」となります。
[15節]を解き明かすと、「私たちが御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださると、心の中で疑わず、確信すれば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと確信するのです」となります。
まとめ
聖書の言葉とその力と真実は、人間の知識と知性の限界を超えていますので、神話かおとぎ話のように感じてしまいます。
しかし、聖書がいう神の御心は、私たちが聖書の言葉の実現を見ずに信じ、信仰により御言葉の実現を体験し、御言葉に働く神の力により、イエス・キリストの実在を見ずに信じることです。
聖書がいう福音の真実は、心体の癒やしや問題の解決、願い事の実現などにあるのではなく、私たちに「永遠のいのちが与えられること」なのです。
「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています」(2コリント6:8〜10)
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