聖書の冒頭にある創世記には、神様(創造主)による天地創造の業が明確に示されています。そこに示される内容は、進化論の教育を受けた現代人にとって現実離れした空想のように映るかもしれませんが、一方で、自然界の不思議が見事に描かれているため、新鮮な感動を覚える人も多いことでしょう。
このような聖書が伝える創造論(天地創造の業)と、現代社会では通説になった進化論を比較する作業には、昔から多くの人が関与してきましたが、多くの場合、議論がかみ合わない状況が続いています。
議論がかみ合わない理由
進化論は科学的な探求に基づく仮説です。確かに多くの反例がありますが、その都度、仮説に修正が加えられています。十分な修正ができているわけではありませんが、仮説を証明しようとするアプローチや、仮説に修正を加えることは通常の科学的な検討の範疇(はんちゅう)です。
ただ、極めて反例の多い進化論がいまだに存在している理由は、将来証明される見込みがあるからではなく、他に科学的な仮説が見いだせないことと、進化論がこの世の多くの利権に絡んでしまったことによるのでしょう。
一方、創造論は信仰によって確認される事実です。科学的な検討によって証明できるものではありません。神様の存在も聖書が示す創造の業も、科学の領域をはるかに超えていますので、創造論を科学的に検証することは不可能です。
ただ、信仰によらずとも、聖書の記述が正しいと仮定すると、多くの反例を抱える進化論とは異なり、現代の科学的知見とほぼ矛盾しないのも事実です。
このように、全く異なる立場にある進化論と創造論ですので、双方の議論がかみ合わないのも当然なのでしょう。
混迷を深める進化論が広く行き渡る
この世界には多くの生物が存在します。それらの存在理由を科学的に求めるため、仮説として進化論(生物の自然発生や生物進化)を考えるのは当然の流れでしょう。
ただ、多くの研究者がこれらの仮説の証明に行き詰まり、仮説の修正を求められています。最初の生物が35億年前に海底で誕生し、その後、進化が長い年月をかけて行われたとする説は広く知られていますが、根拠は非常にあいまいです。
最近では、地球上には生物誕生の環境も進化の痕跡も見いだせないため、宇宙からの生物由来説が目立つようになりました。
いずれにしても、進化論の証明には到底至らず、混迷を深めているのですが、困ったことに、少しでも興味深いことがあると、あたかも証明に近づいたかのような論文発表やマスコミの取り扱いがあり、多くの人を混乱させています。例として、小惑星探査機はやぶさが持ち帰った砂の中に、水やアミノ酸が存在したニュースなどです。
この他にも、進化論は利権に直結して展開することが多く、教育の現場や、多くの書籍や報道、展示などによって大衆に行き渡り、進化論を証明済みの知見(あるいは証明間近の知見)として誤解する人が増えてしまいました。
自然界に真剣に向き合う科学者に寄り添いたい
一方、自然界に真剣に向き合う科学者の多くは、進化論の証明に無理があることを知っています。また、この世界には現代科学では到底解明できない不思議が数多く存在することも知っています。
聖書信仰を持つ科学者なら、神様による天地創造を事実として受け入れますので、進化論に惑わされることは少ないでしょう。しかし、信仰を持たない科学者の場合、進化論以外の仮説を示せないわけですから、見通しのない進化論をずっと探求する状況に追い込まれます。
このような状況の進化論者に対し、科学の領域ではない創造論を振りかざしても、議論がかみ合わないのは前述の通りです。彼らは科学者として、あくまで科学的な検証を目指しているのですから、むしろ、行き詰まっている彼らの状況に寄り添い、科学的な知見をもとに、進化論の証明の難しさを共有したいと思います。
やがて、真理を求める科学者たちが、困難な状況下で聖書の言葉に触れ、自らの信仰を通し、天地創造の事実を確認する時が訪れることを期待したいものです。先に信仰を得た私たちは、その時に備え、心を込めて祈り、熱心に待ち続けたいと思います。
神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。(ローマ人への手紙1章20節)
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