聖書解釈において度々議論の的になるセカンドチャンスとは、イエス・キリストの福音を受け入れることなく死んだ人々も、死後の世界で福音を聞き、回心の機会が与えられるとするものです。
福音の本質から、私はこのセカンドチャンスの存在を否定する立場にありますが、宣教の働きを進める中、これに関する議論に巻き込まれることがよく起こります。
今回は、その状況とセカンドチャンスの背後にある課題について私なりに書き留めたいと思います。
教会外からの葬儀依頼
ブレス・ユア・ホームでは、教会や牧師に伝手のない方からキリスト教葬儀を依頼されることが多く、発足当時、葬儀のメッセージ内容について悩んでいました。聖書に従えば、イエス・キリストの贖罪によって永遠のいのちへの道が開かれるわけですから、イエス・キリストを信じない人は福音の恩恵にあずかることができず、天国への道が閉ざされていることになるからです。
天国への希望がないとしたら、葬儀で何を伝えればよいのか。一般恩寵(自然界などを通し、信仰の有無にかかわらず全ての人に注がれる神様の恵み)だけを語るべきとも考えましたが、福音の本質に触れない葬儀を全国に拡大するのには抵抗があり、当初、大きな課題になりました。
遺族に寄り添うことを通して
ところがこのような課題は、遺族に寄り添い、故人の生涯をたどる中で間もなく消えていきました。確かに、故人は信仰生活を送っていない場合がほとんどですが、遺族がキリスト教葬儀を依頼するには、それなりの理由があります。
葬儀を前にして遺族から故人の思い出を聴かせていただくと、故人の生涯には、イエス・キリストが失われた魂(故人)を探しておられた足跡がたくさん残されているのに気付きます。それらに心を留め、祈りつつ葬儀の準備を進めると、確かに教会や聖書に伝手はなくても、故人に信仰がなかったとは思えない状況が生じてきます。
結局、葬儀におけるメッセージは、人の思いをはるかに超える神様の大きな愛が故人を天国に導いてくださったと、大いに期待するメッセージへと変えられていきました。
講壇から故人を裁いてはいけない
信仰の有無は、本人を含め、人には気付けないことが多く、一般的には聖書理解、礼拝出席、洗礼などの表面的な情報によって、誤って判断することが多くなります。結果として、教会や聖書に伝手のない人を安易に裁いてしまいがちです。
信者の中だけで使われる「未信者」や「ノンクリスチャン」という言葉も、対象となる人の信仰を安易に否定する一方的な表現ですから、差別用語になるように思います。
まして、葬儀の場において、たとえ故人が信仰生活からかけ離れた生活を送っていたとしても、天国への希望が断たれた者として講壇から裁くことは、決してあってはならないと思います。
天国での再会を期待して
このような思いから、私たちは全ての葬儀において、イエス・キリストが故人をこよなく愛し、迷える子羊を探し求めるように生涯を通して寄り添ってくださったことを語るようになりました。
もちろん、故人が天国に逝ったとは語りませんが、人知を超えた神様の大きな愛を伝え、故人が天国に迎えられたことを、遺族と共に期待する時を持つようにしています。
また、信仰生活を送っていない参列者にも、福音の尊い価値を示し、やがて全ての重荷から解放され、天国で故人と再会することを勧めています。
「セカンドチャンス」の背後にあるもの
そもそも「セカンドチャンス」は、故人が生前に福音を受け入れず、不信者として神様の裁きに合う立場にあることを前提に存在しています。「未信者」「ノンクリスチャン」という言葉と同じように、わずかな情報を基に故人の信仰を一方的に否定していることを示しています。
「セカンドチャンス」の聖書解釈については、神学的な議論が必要なことは承知しています。しかし実際の葬儀においては、遺族に寄り添い、故人の生涯を導いてこられた神様の深い御旨に触れることで、「セカンドチャンス」は、伝える動機さえ失われていくものだと思います。
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