今回は、12章35~48節を読みます。このペリコーペ(聖書におけるまとまった一つの単位)は、マタイ福音書24章36~51節のペリコーペと重複するところがあります。しかし、並行記事といえるほどのものではありません。ですから、両者を重ね合わせて読むというよりも、ルカ福音書のこのお話だけを単独で読んだ方がよいと思います。
では、まずは最後まで読み通してみましょう。
12:35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
婚宴に行った主人の帰りを待つ僕
イエス様が、例え話を織り交ぜた説話をなさっています。この説話と例え話から、私なりにお話を構成してみます。
ある主人の家の僕たち(奴隷)が、婚宴に行った主人の帰りを待っていました。現代日本の結婚式の披露宴はせいぜい2、3時間で終了するでしょうが、聖書の時代の婚宴は数日間続いたといわれています。
婚宴がいつ終わるかは告げられていませんでしたが、僕たちは、目を覚まして主人の帰りを待っていました。すると、主人が突然、帰ってきました。そして、もしも僕たちが目を覚まして待っていたならば、主人は帯を締めて、僕たちを食事の席に着かせ、そばで給仕してくれるとイエス様は語られたのです。
ここでの主人は、イエス様ご自身を意味しています。イエス様ご自身が、僕たちに対して給仕してくださるというのです。「主人は帯を締めて」とありますが、これは出エジプト記12章11節に、過ぎ越しの食事をするときの所作として記されているものです。帯を締めたイエス様が、僕たちに給仕をしてくださるということなのです。
これには、ヨハネ福音書13章で伝えられている、イエス様が十字架にかけられる前に、弟子たちの足を洗ったというお話を彷彿(ほうふつ)とさせられます。
今回のお話では、イエス様が再び来られるときのことが伝えられています。再び来られるイエス様は、栄光を帯びて来られるとも伝えられています(ルカ21:27参照)。しかしこのお話では、再び来られるイエス様は、馬小屋の飼い葉桶に来られたのと同じように、謙虚な姿であられるとされているところが興味深いところです。
ペトロの問い
そういったイエス様の説話を聞いていたペトロは、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と問います。それに対してイエス様は、次のようにお答えになりました。
「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか」(42節)
ペトロの問いに対する答えは、「忠実で賢い管理人」です。それは、いわば指導者を意味しています。なお、管理者はあくまでも僕(奴隷)の一人です。
それは具体的には、この時のペトロというよりも、将来教会の指導者になったときのペトロ、そしてペトロと共に指導者となった他の弟子たちを指しているといわれています(リチャード・アラン・カルペパー著『NIB新約聖書注解4 ルカによる福音書』340ページ参照)。
教会の指導者は、「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる」(43節)ならば、「主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」(44節)とされています。
しかし、「主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる」(45~46節)のです。私たち牧師に対する叱咤激励であるように思えます。
アドベントを前にして
早いもので、今年も11月27日にはアドベント(待降節)を迎えます。私たちの教会では、大人と子どもの合同礼拝のシステムを採っています。そのため、日曜礼拝の説教テキストは日本キリスト教団出版局発行の「教師の友」のカリキュラムを使い、毎月教会学校のスタッフたちと、教案を用いて翌月の説教箇所の学び合いをしています。。それを経た上で説教の準備をしているのです。
先の日曜日には、11月の教案を学び合いましたが、アドベントである11月27日は、ルカ福音書21章25~36節がテキストとして取り上げられています(「教師の友」2022年10、11、12月号58~60ページ参照)。このテキストは、今回触れた「栄光を帯びて来られるイエス様」が伝えられている箇所でもあります。アドベントは、再臨について考える季節でもあるので、このテキストが選ばれているのでしょう。
今回確認したことは、「ユダヤの人たちが、イエスさまの誕生を待ち続けたように、私たちもイエスさまが再び来てくださる喜びの時を待ちつつ、歩んでいくのです」(同書60ページ)ということでした。今回お伝えしたことは、イエス様の再臨を示唆したお話でしたが、かつてユダヤの人々がメシアを待っていたように、イエス様が再び来られることを、私たちは信仰と希望と愛のうちに待っているのです。(続く)
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