今回は、サマリア人のことが伝えられている10章25~37節と17章11~19節を取り上げます。サマリア人は、北イスラエルがアッシリアに支配されていた時代に、ユダヤ人と異民族の間に生まれた混血の人たちです。ユダヤ人と同じ神様を信仰しつつも、そこに異民族の信仰も混ざり合ってしまっていたため、ユダヤ人から見ると「異教」ではなく、いわば「異端」の人たちでした。
ヨハネ福音書4章9節に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」とあるように、反目し合っていたようです。前回のコラムでは、ガリラヤからエルサレムに旅立ったイエス様の一行が、サマリア人の村を通ることができなかったことをお伝えしました。
追いはぎに襲われた人と助けたサマリア人
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐(あわ)れに思い、34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」 そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
これは、エルサレムに向かうイエス様の一行に起こったある出来事を、ルカ福音書だけが伝えている記事です。「隣人を自分のように愛しなさい」という律法を守るにはどうすればよいかというやりとりの中で、「わたしの隣人とはだれですか」と問うた律法の専門家に、イエス様が例えを語られたことを伝えている箇所です。
その例えとは、あるユダヤ人が追いはぎに合ってひどい目に遭わされたときに、同じユダヤ人の祭司やレビ人は見て見ぬ振りをして通り過ぎたのに対し、通りがかったサマリア人は、反目し合っている間柄にもかかわらず、その人を介抱したというものでした。
例えを語られた後、イエス様は、3者のうち誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うかと問われます。それに対して律法の専門家は、「その人を助けた人です」と、サマリア人が隣人になったと答えました。そしてイエス様が、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言ったところで、記事は終わりになっています。
このお話の中で私が大切だと思っていることは、「隣人を自分のように愛しなさい」→「私の隣人とは誰か」→「隣人はサマリア人である」という流れになっていることです。つまり、サマリア人を隣人として受け入れた、追いはぎに襲われた人と同じようにしなさいという構図になっているということです。
しかし一般的には、道の向こう側を通り過ぎた祭司やレビ人のようになるのではなく、追いはぎに合ったユダヤ人を助けた、反目している宗教セクトのサマリア人と同じようにしなさいという意味合いで、このお話が捉えられることが多いと思います。
私は、追いはぎに襲われた人と助けたサマリア人の両者の間に存在することを、「行って同じようにしなさい」というのが、このお話でイエス様が語っていることではないかと考えています。故村瀬俊夫牧師が、生前に書いておられた第2ヨハネ書の講解の、次のことがこれに該当することだと考えているのです。
7節以下にも少し触れておきます。「人を惑わす者」と言われ、「反キリスト」と決め付けられているのは、グノーシス異端のことです。この異端の背後には、肉体を蔑視し霊魂のみを重視する《霊肉二元論》を特色とするギリシャ思想がありました。それでイエスが肉体を持つ人として来られた神であることを否定し、イエスの肉体の死も復活も認めないのがグノーシス異端の立場でしたから、「反キリスト」と言われているのです。
10節に、このような異端者が来るときには、「家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません」と言われています。そういう行為は、「敵をも愛せよ」と言われるイエス様の教え(→ルカ6:27)と矛盾しないのでしょうか。私たちは異端の教えを憎みます。しかし、異端者をも異端の教えと同じく憎んでもよいものでしょうか。読者のあなたは、どう思われますか。
サマリア人はユダヤ人から見ると異端者です。しかしイエス様は、サマリア人の介抱を受け入れた、追いはぎに襲われた人と同じようにしなさいと語っておられるのであり、また同時に、このお話の影響史において言われている、自分たちを異端者としているユダヤ人を介抱したサマリア人と同じようにしなさい、ということでもあると思うのです。
戻ってきたサマリア人
聖書箇所は少し飛びますが、17章11~19節もお伝えしたいと思います。この記事も、エルサレムに向かう途上での出来事であり、またルカ福音書だけが伝えているものです。
17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
重い皮膚病(恐らくハンセン病)の人たちは、共同体にいることができませんでした。そこでこの人たちは、一群となって生活していたようです。重い皮膚病の人が共同体の中にいることができないのは、ユダヤ人もサマリア人も一緒であったようです。
今回のお話では、重い皮膚病を患ったユダヤ人9人と、同じ病を患ったサマリア人1人が登場しますが、健常者であれば一緒に生活などしないユダヤ人とサマリア人が、重い皮膚病であるという共通項で一緒に生活をしていたのです。この10人が、祭司の所に向かう途上で、イエス様によって癒やされたのです。しかし病気が癒やされた途端に、ユダヤ人とサマリア人の共同生活が崩れたのではないかと思います。癒やされたサマリア人は、健常者のサマリア人と同じように、ユダヤ人たちから締め出されたのではないでしょうか。
しかし、この癒やされたサマリア人だけは、イエス様の元に戻ってきてひれ伏して感謝をしました。この出来事は、やがて起こる初代教会の伝道が、サマリアでなされることを予兆していると思います。福音はサマリアに伝わっていったのです。
「あなたの信仰があなたを救った」
19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
ルカによる福音書のテーマは「やり直せます」であると考えていることをお伝えしてきましたが、ここにおいても重い皮膚病を患っていたサマリア人が、再出発をしていく様子が伝えられています。きっとサマリア人の共同体の中に帰っていったことでしょう。(続く)
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