今回は、ルカ福音書9章51~56節、10章1~11節、17~20節を読みます。今回お伝えする箇所は、すべてルカ福音書だけに固有の記事です。
エルサレムに向かう
9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。55 イエスは振り向いて二人を戒められた。56 そして、一行は別の村に行った。
ルカ福音書は、9章50節まではイエス様のガリラヤでの活動を伝えていましたが、今回お伝えする箇所から19章27節までは、イエス様がご自身に与えられた使命を果たすためにエルサレムに向かわれる途上について伝えています。かなり長い「旅の記録」が伝えられていることになります。
51節の「エルサレムに向かう決意を固められた」は、原文を直訳しますと、「エルサレムに行くために顔を固く向けた」となります。イエス様の強い決意が感じられる記述です。
一行はエルサレムに行く準備のために、サマリアのある村に入りました。しかし、サマリア人は一行を歓迎しませんでした。そもそもサマリア人とユダヤ人は、仲の良くない関係でした。その上に、イエス様がサマリア人の神殿があるゲリジム山ではなく、「エルサレムを目指して進んでおられた」(53節、直訳では「顔がエルサレムに向かって行きつつあった」)からです。
イエス様の柔和な態度
ヤコブとヨハネは、歓迎しなかったサマリア人に憤慨し、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。報復しようとしたのです。しかしイエス様は、それをたしなめられます。一行は衝突を避け、他の村に行きました。
イエス様のこの時の態度は、一言で表現すれば「柔和」であったと思います。柔和という言葉は、聖書以外で見ることはあまりないと思いますが、その意味するところは「報復しない」ということです。サマリア人に報復しようと思ったヤコブとヨハネをたしなめたことは、イエス様の柔和な態度の表れであったのです。
そしてこの時、衝突を回避して、弟子たちもイエス様の柔和な態度に同調したことが、後年のヨハネの活動にとってはプラスになっていることが、使徒言行録から読み取れます。同8章にある記述を見てみましょう。
8:1b その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。(中略)4 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣(の)べ伝えた。6 群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。(中略)14 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。15 二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。16 人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。17 ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。(中略)25 このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。
イエス様は天に上げられるとき、弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と言われました。そしてそれが、その後間もなくして実現したのです。初代教会のサマリアへの伝道が始まるのです。
その時に、ヨハネがペトロと共にサマリアに行ったことが伝えられているのが上記の記事です。イエス様がエルサレムへ出発するとき、サマリア人と衝突していたならば、ヨハネはその後のサマリア伝道を成し得たでしょうか。サマリアには行きづらかったのではないでしょうか。
報復しようとしたときにイエス様が取られた柔和な態度が、後のサマリア伝道を可能にしたのです。サマリア人から歓迎されなかった状態から、やり直すことができたのです。十字架の道に向かわれるその始めに、イエス様が柔和な態度を取られたというのは、十字架に向かう歩みとしての象徴的な出来事でした。
報復しないこと、すなわち柔和に生きることが、やり直すことにおいて大切なのです。このコラムでは、ルカ福音書を「やり直せます」というテーマを中心にして読んでいますが、柔和に生きることは、やり直すことにつながるのです。
72人の弟子の派遣と「宣教活動の10の原則」
10:1 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼(おおかみ)の群れに小羊を送り込むようなものだ。4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。11 『足についたこの町の埃(ほこり)さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。」
ガリラヤを出たイエス様は、途中で12弟子以外の72人の弟子を、2人ずつの組にして宣教に遣わします。遣わすにあたって彼らにイエス様が言われたことは、「宣教活動の10の原則」としてまとめることができます(リチャード・アラン・カルペパー著『NIB新約聖書注解4 ルカによる福音書』284~285ページ参照)。それを列挙してみましょう。
- 「収穫は多いが、働き手が少ない」・・・教会の宣教活動を世界が必要としていることの明言
- 「収穫の主に願いなさい」・・・宣教活動を支持する祈りの大切さ
- 「行きなさい」・・・弟子一人一人の活発な参加の要求
- 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」・・・宣教者(『NIB新約聖書注解4』の原文は「信徒」)が直面するはずの危険についての警告と指針の提示
- 「途中でだれにも挨拶をするな」・・・目的の特殊性の強調
- 「まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」・・・宣教の目的の具体的な提示
- 「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい」・・・設定されたものへの順応
- 「しかし、町に入っても、迎え入れられなければ」・・・常に成功するとは限らないことの認識
- 「足についたこの町の埃さえも払い落として」・・・耐え忍ぶことの勧告
- 「しかし、神の国が近づいたことを知れ」・・・神の救いの業の実現の保証
5番目の「途中でだれにも挨拶をするな」は、無愛想でいなさいということではなく、無駄な時間を取るなということです。この時代のあいさつは、言葉だけでなくさまざまな儀礼もあったからのようです。この10の原則は、イエス様の時代だけではなく、どの時代にも普遍的なものです。
72人の帰還と謙遜になることの要請
17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」 18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。20a しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」
遣わされた72人はやがて帰ってきます。そしてイエス様に報告をするのですが、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」という言葉には、彼らがいささか得意になっていたことがうかがえます。しかしイエス様は、「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない」と言われました。弟子たちが得意になっていることを戒め、謙遜になることを求めたのです。
宣教活動において賜物が与えられていても、宣教者がそれを得意にしてはならないということです。説教が上手な牧師がいます。しかし、それに得意になるのではなく、神様からの賜物として受け止め、神様の言葉を預かる者として謙遜に語らなければ、その説教は聴衆に通じません。
前述した「柔和」と、今回の「謙遜」が、イエス様から求められているということだと思います。
命の書に名が記される
20b 「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
そして、イエス様はこのように言われたのです。「名が天に書き記されている」ということは、フィリピ書4章3節、およびヨハネ黙示録3章5節、13章8節、17章8節、20章12、15節、21章27節に記されている「命の書に名が記されている」ということと同じ意味であるといわれています(リチャード・アラン・カルペパー著『NIB新約聖書注解4 ルカによる福音書』287ページ、木田献一著『新共同訳 旧約聖書注解Ⅲ 続編注解』49ページ参照)。
「命の書に名が記されている」とは、何を示しているのでしょう。私は、ダニエル書12章1節の「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は」を連想します。
ここでの「あの書に記された人々」とは、アンティオコス4世の軍と戦って殉教した人たちであると考えられます。「その時には救われるであろう」は、彼らの復活を語っているのです。イエス様が言われている「名が天に書き記されている」、あるいは新約聖書の他に箇所ある「命の書に名が記されている」というのは、ダニエル書のこの箇所で言われていることと同じなのではないでしょうか。
そうなりますと、「名が天に書き記されている」ということは、弟子たちの殉教を示唆しているのでしょうか。それともそこまでではなく、「天の子とされる」という意味なのでしょうか。このことは今後も考えていきたいと思います。(続く)
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