今回は、「主の祈り」が含まれる11章1~13節を読むことにいたします。主の祈りは、マタイ福音書の山上の説教の中でも語られていますが、ルカ福音書のこの箇所でも伝えられています。
ヨハネ教団における祈りから
1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
洗礼者ヨハネは既に殺害されていましたが、ヨハネの弟子たちはヨハネ教団と呼ばれる共同体を形成し、それは1世紀末ごろまで運動集団として存続していたようです。そのヨハネ教団において、「洗礼者ヨハネによって教えられていた祈り」がなされており、「そのような祈りを教えてください」との願いが、イエス様に対して弟子からなされたのです。
つまり、共同体における祈りを教えてくださいということなのです。マタイ福音書においては、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(6章6節)という言葉が、主の祈りの背景になっており、そこではどちらかというと個人の祈りであることが暗示されていると思います。しかしルカ福音書では、共同体における祈りとして教示されているのです。
祈りの後の例え話にも示される共同体性
2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇(あが)められますように。御国が来ますように。3 わたしたちに必要な糧(かて)を毎日与えてください。4 わたしたちの罪を赦(ゆる)してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」 5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
ルカ福音書版の主の祈りは、マタイ福音書のそれと比べると若干短くなっています。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という内容は、ルカ福音書版にはありません。
また、マタイ福音書で主の祈りを伝えている場面では、祈りの後に短い説明を付けて、「断食するときには」という別の説話に移行していますが、ルカ福音書では祈りの後に例え話が付けられています。これもルカ福音書の特徴です。そして、その例え話の内容は、やはりこの祈りが共同体のためのものであることを示しています。
聖書の時代は、旅をするときに一般の家に泊まることが多かったようです。そして、その旅行者に対してはできる限りもてなしをするという風習があったようです。この例え話には、そのような旅行者が登場しています。次のようなものです。
ある家に夜遅く、友人の旅行者が泊まりにやって来ました。当然家の人は、その旅行者に対してもてなしをしなければなりません。ところが、その家にはパンがなかったので、旅行者へのもてなしができないのです。それでこの家の主人は近くの友人の家に行き、パンを3つ貸してくださいと願ったのです。けれども、この近くの家の友人は、「もう遅いし、起きて音を立てたら子どもたちも起きてしまうし、勘弁してください」と言ったのです。
ここで、例え話を語っていたイエス様は、「それでも、パンを借りに来た人が一生懸命頼めば、近くの家の友人はパンを出してあげるでしょう」という解説を入れるのです。そして弟子たちに対して、祈ることもそのようにしなさいと言われました。
その意味の一つは、パンを借りにきた人が一生懸命に頼むように、祈る人も一生懸命に祈りなさいということです。しかし、もう一つの意味があります。それは、祈りとは、友人の旅行者をもてなすために、近くの友人の家にパンを借りにいったように、他者との関係においての祈りでありなさいということです。
パンを借りにいった人が祈り手であるならば、パンを貸すことを請われた近くの家の友人とは、神様が例えられているのでしょう。そこでの祈りは、パンを借りにいった人の所に泊まりにきた友人のためのものであり、それは自分のための祈りではなく、他者のための祈りであることを意味しています。
これは、共同体における祈りの在り方を示しているのでしょう。イエス様の共同体においても、共同体内の他者に対する祈りをしなさいということです。そしてそれは、やがて誕生する教会に対する指示でもあったのです。ですから、私たちは主の祈りを祈るときに、その祈りが共同体における祈りであることをも思うべきでしょう。
「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ」と、主の祈りは「我ら」を強調した祈りなのです。私たちは主の祈りを祈るとき、ルカ福音書のこのお話を心に留める必要があるのではないかと思わされます。
「あなたがたは」
9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
イエス様はさらに言葉を続けます。新共同訳聖書では、単に「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」となっていますが、原文ではこれらには全て、「あなたがたは」という言葉が付いています。「そこで、わたしは言っておく。あなたがたは求めなさい。そうすれば、与えられる。あなたがたは探しなさい。そうすれば、見つかる。あなたがたは門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」ということです。
10節の「だれでも」というのは、むしろ「全体で」とした方がよいと思います。「全体で求める者は受け、全体で探す者は見つけ、全体で門をたたく者には開かれる」ということです。つまりこの箇所も、これらのことが共同体においてなされよ、ということなのです。
ここにある「求める」「探す」「門をたたく」は全て祈りです。「このような祈りを共同で行いなさい」と、イエス様は言っているのです。そしてそうすれば、聖霊が与えられるであろうと言われました。聖霊はペンテコステの日に教会に降ったのです。その意味でも今回のお話は、教会に対してイエス様が求めているものだと思います。
教会の中で、何かを求めている人がいたならばその人のために祈りなさい、何かを探している人がいたならばその人のために祈りなさい、ということです。門をたたくというのは、祈ること自体を意味しているといわれます。つまり何かを祈っている人がいれば、そのために祈りなさいということでもあるのです。
マタイ福音書の主の祈りと、ルカ福音書の主の祈りには、背景などを含めてそれぞれに特質があります。両方とも大切だと思います。主の祈りは、個人で祈るものでもあるし、共同体で祈るものでもあるからです。(続く)
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