今回は、11章37節~12章3節を読みます。ここには、ファリサイ派の人々と律法の専門家(律法学者)に対するイエス様の言葉が記されています。
ファリサイ派の人々への非難
11:37 イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。38 ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。39 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。40 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。41 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。42 それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献(ささ)げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。43 あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。44 あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」
11章37~52節は、マタイ福音書23章1~36節に並行記事があります。マタイ福音書の方は、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と、両者を並べて批判することでこのお話が貫通されていますが、ルカ福音書は、11章37~44節ではファリサイ派の人々に対して、45~52節では律法学者に対する批判が、それぞれ伝えられています。
イエス様はファリサイ派の人々に対して、「外側はきれいにしているが内側は強欲と悪意に満ちている」という非難をされた後、3つのことを「不幸だ」としています。
1つ目は42節において伝えられているのですが、ギリシア語原文に即した場合、この節は岩波訳の佐藤研(みがく)氏の翻訳が適切と思われますので、それを掲載いたします(『新約聖書〈2〉ルカ文書―ルカによる福音書 使徒行伝』78ページ参照)。
しかし禍(わざわ)いだ、お前たちファリサイ人よ。お前たちは薄荷と、芸香と、あらゆる野菜の十分の一税を払っていながら、さばきと神の愛とをないがしろにしている。もっとも、前者も行わねばならないが、後者も怠ってはならない。
上記の「裁きと神の愛をないがしろにしている」を原文に忠実に私訳いたしますと、「神の愛と裁き」(最も忠実な翻訳は『神の裁きと愛』ですが)になります。「神の愛と裁き」という言葉は、「神の愛」と「裁き」とも解釈できますし、「神の『愛と裁き』」とも解釈できます。ですから文脈によって解釈していかねばならないのです。岩波訳は前者を採っています。
しかし私は、ルカ福音書においては、「神の『愛と裁き』」という2つの項目を語るマリアやイエス様の言葉が伝えられている(第1回、第10回参照)とする観点から、上記のファリサイ派の人々に対する非難を、「神の『愛と裁き』をないがしろにしている」という意味に解します。
マタイ福音書の並行記事では、この箇所は「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」と伝えられています。ルカ福音書の「○○をないがしろにしている」は、マタイ福音書とは違うルカ福音書に特徴的なものであると捉えることができ、ルカ福音書が他の箇所でも「神の『愛と裁き』」という2つの項目を伝えているという文脈で考えれば、イエス様のファリサイ派の人々に対する非難は「神の『愛と裁き』をないがしろにしている」ではないかと考えるのです。
なお、孫引きではありますが、この箇所は、新契約聖書(永井直治訳)においては、「神の裁と愛」と翻訳されているようです(「説教黙想アレテイア」78号・58ページ参照)。
ルカ福音書ではファリサイ派の人々が頻繁に登場しますが、それは「神の『愛と裁き』」という文脈(コンテキスト)で、特に「神の裁き」を担う役割の人々として伝えられているというのが、私がルカ福音書を読む際の視点の一つです。しかし、それは決して裁きで終わるのではなく、その地平には常に「やり直せます」ということがあるというのも私の持論です。
ファリサイ派の人々の2つ目の「不幸だ」は43節で、「会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」と伝えられています。これは、外面的に人から良く見られることを望んでいることを非難しているものです。39~42節において彼らの内側が強欲であることが指摘され、また1つ目の「不幸だ」において十分の一税が取り上げられていましたが、献金への態度も含めて、外面的に良く見られようとすることがファリサイ派の人々の特徴であったようです。
ファリサイ派の人々の3つ目の「不幸だ」は、「人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない」です。墓は汚れた場所であり、そこに入ることは汚れることを意味します。しかし、ファリサイ派の人々はその汚れた場所であることに気付かせない存在であり、接する人たちが気付かずに汚れてしまうという意味です。
この箇所は、マタイ福音書23章27節の並行記事では、以下のように伝えられています。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
ルカ福音書では「人目につかない墓」と伝えられていますが、マタイ福音書では「白く塗った墓」と、外面的には人を引き付ける、むしろ人目につく存在としての汚れた場所であるように伝えられています。
私は以前に、スコット・ペック著『平気でうそをつく人たち』を読んだことがあります。この本は、「邪悪」ということをテーマにしたものでした。その中で、上記の「白く塗った墓」が引用されていたことが印象的でした。同書は、「邪悪」ということをテーマにした本ですが、「邪悪な人は自分を白く塗った墓のようにきれいに見せている」ということを言わんとしていたかと思います。
つまり、マタイ福音書では、ファリサイ派の人々を、事象として、外側の出来事から見える視点で伝えているわけです。それは、ペックが描くような「邪悪」な人たちを象徴するものなのでしょう。しかし、ルカ福音書では「人目につかない墓」として、事象としてというよりは、自分自身の内側の事柄としての喚起を促しているように思えるのです。
「ファリサイ派の人々」というのは、自分たちとは別の場所にいる人々のことではなく、自分自身がいつでもその仲間に入ってしまう人々のことであると私は考えています。ルカ福音書は、ファリサイ派の人々を伝える際、そこをポイントにしていると思えるのです。それが、「人目につかない墓」という表現から、私が感じていることです。
律法の専門家への非難
45 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。46 イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。47 あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。48 こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。49 だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』 50 こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。51 それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。52 あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」
ファリサイ派の人々が外見を良く見せようとして過ちを犯していたのに対し、律法の専門家たちは偏った聖書解釈をするということで過ちを犯していました。52節の「知識の鍵を取り上げ」というのは、自分たちの偏った聖書解釈しか認めない偏狭な態度のことを意味しています。イエス様はそのような態度についても、ファリサイ派の人々と同様に「不幸だ」と言っておられるのです。
律法の専門家に対しては、上記以外にも2つのことが「不幸だ」とされています。その1つは、46節の「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ」ということです。彼らはモーセの律法にさらに規則を付け加えて人々に「重荷を負わせ」、しかし彼ら自身はそれを眺めているだけだったのです。ここでイエス様が「重荷を負わせ」と言われているのは、ご自身が十字架によって私たちの荷を軽くされることを意味しているように思えます。
もう1つは、47節の「自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ」ということです。殺された者として、アベルとゼカルヤの名前が上げられています。アベルは創世記4章でカインに殺害されたアベルであって、よく知られていますので割愛しますが、ゼカルヤについてはあまり知られていないと思われますので、歴代誌下24章20~22節の当該箇所を掲載いたします。
24:20 神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。「神はこう言われる。『なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」 21 ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した。22 ヨアシュ王も、彼の父ヨヤダから寄せられた慈しみを顧みず、その息子を殺した。ゼカルヤは、死に際して言った。「主がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように。」
このように、旧約聖書の人たちが殺害されていることに対して、「口先では彼らをほめたたえるあなた方は責任を問われる」とイエス様は言っておられるのです。それは、やがてご自身が殺害されることに対しての責任をも意味しているのではないかと思います。
ファリサイ派の人々や律法の専門家とは誰か
53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、54 何か言葉じりをとらえようとねらっていた。
イエス様はこのようにして、ファリサイ派の人々や律法の専門家に対する裁きの言葉を語っておられました。そして彼らはイエス様を攻撃することになります。では、ルカ福音書が伝えているファリサイ派の人々や律法の専門家とは誰を指しているのでしょうか。私は、それは私たち自身を指していると考えています。私たちにもそのような裁かれるべき特質があるのです。
そのような、私たちに裁かれるべき特質があることを、イエス様は「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と語っておられます。
12:1 とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。2 覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。3 だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」
パン種は小さなものを大きくします。人々の間にファリサイ派の人々の教えがまかれるなら、それは肥大化してしまいます。そうならないように注意しなさいということですが、それは、私たちに対する、イエス様の愛と裁きによる警告なのです。(続く)
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