今回は、12章13~34節を読みます。ここでは、イエス様が「富と神の国」について語られたことが伝えられています。
金持ちの例え話
13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
伝えられていることから察しますと、相続するべき遺産を規定以上にお兄さんに取られてしまった弟が、群衆に囲まれたイエス様のところに来て「調停をしてください」と願い、イエス様がそれを拒否されたというお話です。遺産相続に関することは律法に定められていることですから、この弟は、ラビであるイエス様なら調停をしてくれると思ったのでしょう。
しかしイエス様は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(ルカ20:25、及びマルコ福音書とマタイ福音書の並行箇所)と言われており、神の国での在り方を基準にしていました。ですから、この世のことに関して調停するようなことはなさらなかったのです。
イエス様は、これを機会にと思われたのでしょうか。群集に向かって一つの例え話を語られました。それはある金持ちが、畑が豊作になったので倉を建て直して大きくし、そこに収穫物を蓄え、これからは遊んで暮らそうと思ったというお話です。しかし、神様はその金持ちに、「今夜、お前の命は取り上げられる」と言われたというのです。
この例え話が言わんとしていることは、所有物に固執することは、「神の国の基準」には沿わないということだと思います。では、「神の国の基準」とはどのようなものなのでしょうか。イエス様は、続けて説話を語られました。これは、マタイ福音書の山上の説教の中にある説話(マタイ6:25~34)と、かなり一致しているものです。
栄華を極めたソロモンでさえ
22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。24 烏(からす)のことを考えてみなさい。種も蒔(ま)かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。25 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
私は幼いときからこの説話が大好きでした。特に「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって(マタイ福音書では「今日は生えていて」)、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる」というくだりが印象的でした。「栄華を極めたソロモン」という言葉の意味は分からなかったものの、暗唱していたものです。
成長してから、列王記や伝道の書(新共同訳ではコヘレトの言葉)にあるソロモン王についての記事を読むようになり、ダビデ王の息子で大変な資産を持っていたこと、それ故にどれほどの装いをしていたかも知るようになりました。
イエス様は、野の傍らに生えている野生の花でさえ、この栄華を極めたソロモン王の装いよりも美しいと言うのです。私はイスラエルを訪れた際、「山上の説教の丘」という所に行きましたが、そこは本当に花がきれいで、「イエス様はこういう花を見ながらこの説話を語られたのだろうな」と思わされたものです。
野の花の説話の前では、空を飛ぶ烏のことが語られています(マタイ福音書では「空の鳥」)。烏は「種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない」と、まさにその前の例え話で語られていた、豊作を得て倉を建て直そうとしていた金持ちとは全く逆の存在です。しかしその夜、命を取られてしまう金持ちとは逆に、神様は烏を養ってくださると語られています。
空の烏は養われ、野の花は装われます。であるならば、「ましてやあなたがたにはなおのこと、神は必要なものを与えてくださる」と、イエス様は語っておられるのです。そのことに信頼し、富を得ようとして思い煩うのではなくして歩んでいくこと、それが神の国の基準であると、イエス様は語っておられるように思えます。
「小さな群れよ、恐れるな」
32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
32節の言葉は、マタイ福音書にはないルカ福音書に固有なものです。「小さな群れ」は、小さな教会を指し示しているように思えます。「小さな教会よ、恐れるな」と言われているのです。小さな教会は、往々にして経済的に恵まれていません。しかしイエス様は、「思い悩むな」と言われるのと同じように、「恐れるな」と語られているのです。小さな教会を牧会している私には、大変心強い言葉です。
33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
所有しているものを売り払って施すならば、この世のお金はその分なくなります。しかしイエス様は、そうするならば、「擦り切れることのない財布」にお金が入り、天に「尽きることのない富」を積むことになると言われているのです。そしてそのお金は、盗人に取られることはありません。
34節の「あなたがたの富のあるところ」とは、あなたがたの富が地上にあるのか、天にあるのかということです。豊作を得た金持ちは地上に富を持ちました。しかし、神の国を第一にする者は、天に宝を積むことになるということです。
マモン
今回のお話で言われているような、お金に固執することを、新約聖書では「マモン」としています。マモンとは、拝金主義という偶像のことです。「マモンに仕えるのではなく、天の父なる神様の御旨に聞きなさい」ということが、今回伝えられているイエス様のメッセージではないかと思います。
マモンについては、16章13節にその言葉がありますので、当該箇所を扱う際に詳しくお伝えしたいと思います。(続く)
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