今回は、13章1~9節を読みます。この箇所は、新共同訳聖書では別々の段落になっていますが、一つのお話として読んだ方がよいと思います。また、このお話は他の福音書に並行記事のない、ルカ福音書に固有なものですので、ルカ福音書としての特色が表されていると思います。それでは聖書を読んでみましょう。
1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
ガリラヤ人巡礼被災者と倒れた塔の被災者
災難には人災と天災があります。このことは、聖書の時代から認識されていたと思います(「コヘレト書を読む」第28回、第29回参照)。今回のお話でも、人災と天災が取り上げられています。
「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という出来事が、イエス様に告げられるところからお話は始まります。ピラトとは、ローマ帝国の植民地であったユダヤを治めていた、属州総督といわれる地位にあった人で、後にイエス様に十字架刑を下した人物です。
ルカ福音書2章41節によるならば、ガリラヤの人であったイエス様の両親も、毎年エルサレムを巡礼していたようですが(第6回参照)、ガリラヤから集団でエルサレムの神殿に巡礼しに行く人たちがいたようです。その巡礼者たちが、神殿にいたピラトの兵隊によって、彼からの命令で殺害されるという事件が、この時にあったようです。その犠牲になった人たちは、災難の内でも、人災に遭ったということになりましょう。
イエス様はそれに対して、「災難に遭ったのは、その人たちが他の人たちよりも罪深い者だったからだろうか」と反問されました。
イエス様は次に、「シロアムの塔」と呼ばれていた塔が倒れて、その時にエルサレムの人たちが18人犠牲になったという災難も取り上げています。この事件の歴史的な経緯はよく分からないのですが、これは天災によって犠牲になった人たちのことを取り上げているのだと思われます。この災難についても、イエス様は同様の反問をされています。
そして、上記の聖書テキストで太字にしておきましたが、両方の災難についてのご自身の反問に対して、「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と語っておられます。
このことは、第一に「人災・天災の被災者は、罪の結果そうなったのではない」ということを意味しています。日本人の考え方でいえば、「バチが当たった」ということでしょう。自分が何か悪いことをしたが故に災難に遭ってしまったという意味合いで、因果応報といわれているものです。しかしイエス様は、こういった考え方を否定しておられるのです。
第二には、「人が悔い改めないのであれば、罪の結果ではなくても、災難の被災者のようになる」ということです。これは一見厳しい言葉であるように思えますが、実はその後の「いちじくの木の例え」とつなげて読むならば、正しい理解をすることができると思います。冒頭で「この箇所は、一つのお話として読んだ方がよい」とお伝えしたのは、そのことからです。
いちじくの木の例え
イエス様は、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と2度繰り返した後に、一つの例え話をされます(6~9節)。分かりやすいように、例えられているものが何を指しているのかを最初に記しますが、いちじくの木を植えた人は神様を、いちじくの木は私たち人間を、園丁はイエス様を指していると考えられます。
ぶどう園に植えられたいちじくの木が、3年間実を付けませんでした。それで、木を植えた人は園の管理者である園丁に、そのいちじくの木を切り倒せと命じるのですが、園丁は「肥やしをやってみるから、もう1年待ってください」と答えたというものです。
この例え話は、イエス様(園丁)が父なる神様(木を植えた人)に、人間(いちじくの木)の罪の赦(ゆる)しをとりなしていることを意味しています。3年間というのは、イエス様の公生涯(教えを説き始めてから十字架にかけられるまでの間)を指しているようにも思えます。そして、「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」という言葉は、十字架上で命を捨てられたイエス様によってなされた、罪の赦しという救いの業を指しているのでしょう。
イエス様は「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われましたが、ご自身が私たち人間をその状態から解放してくださることも、「このままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます」という言葉によって宣言されておられるのです。
「実をならす」が意味すること
9節の「そうすれば、来年は実がなるかもしれません」という言葉は、いちじくの木、すなわち人間が実をならすことへの期待を意味しているとされます。この「実をならす」とは、悔い改めて「再出発」をすることなのです(『説教黙想アレテイア ルカによる福音書12~24章』73ページ、小早川幸孝氏執筆のページ参照)。「再出発」を本コラムでお伝えしている言葉で言うならば、「やり直せます」ということです。
このお話でイエス様は、5節まででは「悔い改めなければ滅びる」という現実を指摘して、悔い改めの呼びかけをしておられますが、6節からは、例え話で示されているご自身の救いの業の完成によって、「やり直せます」ということを示唆しているように思えます。
冒頭でお伝えしましたように、今回のお話はルカ福音書に固有な記事ですが、こういった「やり直せます」というメッセージが、ルカ福音書に記されている「福音」の特徴であると思うのです。(続く)
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