新しい年を迎え、われわれの社会がコロナ禍に直面し、早くも3年目に突入した。人々や物の往来が制限される中、キリスト教団体や教会は、欠乏や助けの必要な人々に援助を惜しまず、彼らの必要に届くことによって、その存在感を増している。
コロナ禍によって、リモート化が進む中、教会でも、多くのオンライン礼拝が実施され、教会は新しい可能性を大きく押し上げた。このコロナ禍によって、普段、教会に集って礼拝することができるのは、実は当たり前のことではないことを学んでいるのではないだろうか。
教会は場所でも建物でもない。仮に無牧を強いられたとしても、2人、3人の信者が、主の御名によって共にいて、聖句を握り、祈り、賛美をささげるなら、それは立派な教会なのだ。現に教会は、歴史の中で幾多の迫害に直面し、公に集うことが困難な状況を度々経験してきた。そして今もそのような制限を強いられる迫害下の教会は、世界を見渡せば多数存在するのだ。
平和な迫害のない地域の教会といえど、いつまでも教会に集まることができる未来を保証するものはどこにもない。そのような未来に起きるかもしれない迫害時代のテストケースをこのコロナ禍は提供しているのではないだろうか。
教会がどれほど分断されようとも、それは主イエスにつながる、キリストの御体なのだ。襟を正し、心のどこかに備えの意識を持ちつつも、今も迫害下で新しい年を迎える教会の兄姉たちを覚えよう。
この新しい年2022年も、時が良くても悪くても希望をもってみことばの種をまき、世界宣教の達成を共に祈っていただきたい。