中国には、古代からさまざまな宗教がありました。紀元前から存在していたものの一つに、儒教があります。儒教は宗教かとの論争もあります。
大まかに言って儒教は、孔子(前551〜479)が教えた思想をもとに彼の弟子たちがまとめた四書五経があり、その中の『論語』はあまりにも有名です。それらによって五常(仁義礼智信)の生き方、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信、君臣の義などの人間関係を教え、儒教によって国民を治める政治学、家や人との関係を大切にする道徳、倫理学が発達しました。
儒教思想の中に、天という語がありつつも、神格がなく自然を尊ぶ気風があり、特に二気の陰陽、天体の運行による五行などがあります。江戸時代には儒学者が多く起こり、各地に藩校もでき、教授たちは四書五経や書道を中心に教え、人の生きる道を説いていました。韓国では、儒教の教えが重んじられてきました。
論語の衛霊公23には、福音書の言葉に似た表現があります。「一言で生涯それを行えばよいことがありますか。孔子が言った。それは恕(じょ)であろうよ。自分のして欲しくないことは人にもしむけるな、だ」(『論語』木村英一訳、講談社)。これはマタイ福音書7章12節「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じようにしなさい」と比較すれば裏返しのようですが、論語は人間関係を消極的に、聖書は積極的に関係づくりを教えていることで違いがあるかと思います。
幕末には、中国語に訳した聖書やキリスト教文書が日本に入りました。その中に、米国の中国宣教師マーチン(1827〜1916)が書いた『天道溯原』(初版1854年発行)があり、中村正直が訓点漢訳書として発行しました。その中に「耶蘇之十字架實為仁義之表記」つまり、イエスの十字架は神の仁義(現代語で愛)を現すためであったとあるのは、当時は愛でなく仁義・仁慈の表記が通っていたということです。それは、東アジアでは儒教の教えが日常化していたことを表しています。仁の意味は人と人との2人の関係のことです。
景教徒たちと儒教との関係についてはどうでしょうか。教えにおいて似ている部分があります。あるいはシリア語から漢語に翻訳するときに、儒教の用語を用いて書いた部分もあります。それは、聖書和訳の場合のエロヒーム、エルを日本の神道用語の「神」と訳しているのと似ています。
『序聴迷詩所経(イエス・メシア経)』には、儒教が教える「天に仕(つか)え、君主に仕え、父に仕える」に似ている部分があります。「人は第一に天尊(父なる神)に事(つか)え、聖上である皇帝に事え、父母に事える。この3点が大切です。これこそ天尊の教えで破ってはいけません」とあります。さらに十願には、① 天尊に仕え、② 聖上に仕え、③ 父母に仕え、④ 良い心で悪意を持たず、⑤ 殺さず、⑥ 他人の妻と関係を持たず、⑦ 盗まず、⑧ 他人の財産や田畑や奴隷をむさぼらず、⑨ 他人に偽証せず、⑩ 他人の贈り物で礼拝するような偽善者や悪人にならず」とあります。これはモーセの十戒とは違い、10にまとめて分かりやすく教えたものです。景教徒たちは中国思想の儒教に左右されて書いたのでなく、聖書の教えを書きました。聖書には「上に立つ権威に主の故に従う」ことも教えています。
中国思想の人間関係の習わしには、婦人(女)は夫・父兄・息子の男たちに従うことの鉄則があり、それは天地は天の陽気が成り、続いて地の陰気が成って万物が成ったという陰陽説があるからです。『孝経』1章にも同じ表現があります。しかし、聖書の男女は平等でありつつも、創造の秩序を教えています。初めに男を造り、女を男から造り、女は男の奴隷ではなく2人は1つの肉であると語り、男女は創造主に聞き従うことを啓示している点で大きな違いがあります。
この点で景教碑には、天地万物の創造で二気の表記があるものの、それは太陽の陽、月の陰を表記したもので中国思想を借りたものではなく、続く初人(アダム)と良和(エバ)の創造については中国思想にないものです。また聖書の神を三一の三位一体と表記し、始めもなく終わりもない方と表記しています。
景教徒たちは初めから聖書の教えを宣教するために東方に来ましたから、中国思想に同化することでも、換骨奪胎でもないことが分かります。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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