景教碑が伝えるところによると、東方教会の中国宣教開始は太宗皇帝(589〜649)と総理大臣であった房玄齢(587〜648)の貞観12(638)年で、その3年前に長安に入り皇帝に謁見しています。
3年の間、聖書や賛美歌、教理書などを書殿で漢訳し皇帝に提出しています。それにより宣教が許可されると、政府の費用で義寧坊区に大秦寺、波斯(ぺルシア)胡寺(会堂)が建ちました。まだこの時は「景教」の名はなく745年ごろに改名しました。唐代には、外国からの仏教やゾロアスター教やマニ教もありましたので、景教だけが優遇されたものではありませんでした。
続いて碑には、高宗、玄宗、粛宗、代宗、徳宗の五皇帝の名が刻まれています。この徳宗皇帝の時代(742〜805)の781年に碑が建ちました。ところが中間の則天武后や中宗、睿宗の各皇帝は記載されていません。
碑は宣教開始から碑の建設(781)までの約150年間、六皇帝の恩恵が大きかったことから各皇帝の徳をたたえています。
唐の初代皇帝は李淵の高祖(開祖)で、李一族です。隋の煬帝とは親戚関係です。李淵には子どもが男子だけで22人いたといわれ後継者争いも起きました。長男の李建成、次いで李世民、李元吉がおり、彼らは父と共に唐を建国した立役者で、中でも李世民は戦いに優れていました。ちなみに隋が滅びたのは皇帝の煬帝が側近の宇文化及らに絞殺されたことによります(618年)。その知らせを聞くと、高祖は李世民と共に長安にて唐朝を建てました。やがて李世民は626年の玄武門の変というクーデターによって、兄弟の2人を殺害し、高祖は譲位して李世民は太宗皇帝に即位しました。その時の立役者の一人が先に挙げた房玄齢でした。
太宗の23年間の治世は「貞観の治」といわれ、政治や経済、外交も安定し、多くの外国の民たちも行き交い栄えました。この時代にペルシアや中央アジアからソグド商人たちも交易し、景教徒たちが来ました。日本からは遣唐使として文物・人物往来もありました。
太宗は書にも優れ、書家の王羲之の真筆を集め、棺にすべての書を納めさせたといわれ(王羲之の真筆は残されていません)、強欲になって堕落した日々を過ごして死んだと伝えられています。
3代目の高宗皇帝は、21歳で即位し、政治的に未経験であり病弱でした。父の側室の一人、のちの女帝の則天武后と夫婦となり、彼女の指導と多大な影響を受けつつ34年も国を支配しました。しかしその間13回も改元していることから、不安定な時代で、時代に新しさを願っていたとも考えられます。高宗の晩年は視力が衰え失明したとも伝えられています。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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