中国陝西省西安市にある西安碑林博物館には3千余りの碑が立ち、それはまさに碑林の博物館で、石刻芸術の偉大さを感じます。その石刻芸術の一つ、大秦景教流行中国碑が石室の奥に収められています。(写真は筆者撮影)
景教碑の上部には三一神の十字、花や雲のデザインが彫られ、碑陽には1800余の漢字が、両側と下部にはシリア文字が彫られています。両側面にも漢字とシリア文字で当時の指導者たち70人が彫られています。
碑陽は3部に構成され、第1部は聖書の神を三一とし、父なる神による天地人の創造と支配、初人アダムの堕落と子孫である人間の窮状、堕落した人間の救い主・弥施訶(メシア)の降誕と救い、浄風(聖霊)による正しい救いがなされ救われた人を天に導いていることなどが書かれています。
第2部は唐代皇帝五人(太宗、高宗、玄宗、粛宗、大宗)と景教との関わりについて述べ、良い関係であったことを伝えています。太宗皇帝の時、635年に初代宣教師の阿羅本が中央アジアからシルクロードで唐に来て聖書や賛美歌や教理を漢訳し献上した結果、宣教が許され正式に景教会堂が全国に建ち、布教が行われたことが書かれています。粛宗皇帝の時代に教会リーダーの一人、伊斯が粛宗に仕えて活躍した偉業が称えられて書かれています。伊斯の子とは碑の文章を書いた景浄です。景浄は父が皇帝に仕え、教会にも仕えて信仰者として立派に生きた、その証しを書いたのが景教碑です。
第3部には三一神を頌栄賛美し、皇帝たちを誉めています。このように最初に三一神を頌栄し、最後にも三一神を頌栄しています。つまりこの碑は神を頌栄する碑と呼べるでしょう。
中国では古く漢の時代から多くの碑が建てられてきましたが、そもそも何のために建碑したかと言いますと、経典その他の文章を碑に遺すことや、人物の偉業を称え、その活躍を後世に遺すためでもありました。しかし、景教碑は異教の地で神の救いを伝えたことを証しし、それをなされた三一神を称えたもので、他の石碑とは大きく異なるものと言えるでしょう。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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