中国は紀元前の秦王朝から始皇帝(在位は前221~前210年)の名を使い、自らを「皇帝」「朕」と称し、全国制覇し天下を統一しました。6つの国を滅ぼし、今の陝西省咸陽市(西安市の西)に都を置き、大宮殿の阿房宮を築き大都市をつくりました。それを秦始皇兵馬俑博物館で見ることができます。(写真は筆者の撮影によります。)
皇帝は敵国の城壁を結び合わせて外敵から守る目的と交易の通路とするために長城を作り、万里の長城が築かれていきました。今のものは明代に築かれたもので、明代になるとレンガ作りが盛んとなったことから強度の長城となりました。航空写真で見ますと、長城の位置が中国の北側に築かれているのは、北の遊牧民族や匈奴から守る目的がありました。
秦の始皇帝が大きな存在であることが分かるのは、1974年に発見された秦兵馬俑博物館内の兵と馬の俑(よう)、戦車などです。これは死後の始皇帝を守る目的で作られたといわれます。
秦の崩壊後、漢帝国が劉邦(前247~前195)によって長安を建設し、秦の都を破壊し、その結果、匈奴や南越の帝国も起きていきました。漢の武帝(在位は前141~前87)の時代には、中央アジアの状況を調査するために張騫(?~前114)が派遣され、中央アジアとの東西交流が盛んとなります。しかし中国国内は不安定になり、分裂、再統一すると同時に、西域との交流も発展させていきます。後581年、隋代になると、中国は統一されます。
618年に隋の煬帝が殺害されると、李王朝の李淵が皇帝となり唐代が築かれます。626年には李世民の太宗(598~649)が皇帝に即位し国際都市となって栄え、635年にペルシアから初代の宣教師、阿羅本らが唐に来て皇帝に接し、638年にイエスの教えの国内宣教と布教が開始されていきます。東西交渉の文物交易が盛んに行われ、ローマやペルシャや中央アジアと唐が交流します。日本においても遣隋使や遣唐使によって多くの人物や文物が船で行き交い、ローマなど西方地域からの品なども日本に入るようになりました。
この時代の東西人口の概算は、ローマが5万人、コンスタンチノープルが30万人、京都の平安京が20万人、バグダードと長安がそれぞれ70万人といわれています。秦代や漢代には中国人を「秦人」と呼んでいましたが、英語のチャイナ、フランス語のシィンは「秦」の名が起源との説があります。景教碑の下部のシリア語には「中国」と書かれたシリア語(右から左に読み書きします)がありますが、唐代は中国をシナと呼んでいたことが分かります。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
『シルクロードをゆく 3号 西安』(学習研究社、2005年)
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