景教碑は781年1月7日(現在の2月4日)の主イエスが復活された日曜日に西安の大秦寺に建てられました。碑の高さは約2・8メートル、幅は約1メートル、頭部は二対の龍、下部は亀でなく龍の九番目の子のビシの台座があり、前文の碑陽部分は約1700文字で作られています。側面にも漢字とシリア語が彫られています。
碑は850年の武宗皇帝の迫害で土中に埋められ、江戸時代初期の1623年か25年に発見されました。その後、ローマ教会の中国宣教師を通して西欧に伝えられ、有名となりました。大秦寺が長安の義寧坊区、洛陽、霊武、五郡(周至県の東の終南山)にもあったことから、碑の所在地が問われました。
発見年代も明代の天啓5(1625)年以前説、1623年説かそれ以前説があります。25年以前説は、中国耶蘇会信徒の李之藻が碑の発見について書いた『読景教碑書後』が1625年5月であると書きました。佐伯好郎や中国耶蘇会宣教師のトリゴール(中国名は金尼閣、Nicholas Trigault)やアブレ(方徳望、Havret)もこの説を唱えました。トリゴールは1625年9月以降に西安に行き、盩厔(ちゅうしつ)地方で碑を発見し、碑文をラテン語に翻訳して西欧に伝えた最初の人物です。
アブレは「周至県で発見された碑を西安の金勝寺に運んだ」との一文に注目しています。発見場所については詩人の蘇東波が1062年に盩厔の大秦寺に出掛けたとの詩があり、彼の弟子も詩で詠み、他の文書でも分かると主張しました(『盩厔縣誌』『景教の研究』『唐代長安與西域文明』『唐代景教再研究』他)。
23年説と長安大秦寺発見説は、桑原隲藏(じつぞう)や長安で碑を検閲したセメド、ぺリオなどの景教研究者が唱えています。碑は当然、長安の義寧坊の景教会堂地に建っていたもので盩厔まで運ぶ無駄はしないと述べ、碑が保管されていた金勝寺は義寧坊であると主張しました。そして当時、景教の大秦寺は破壊されており、これは異教の寺院であると反論しました。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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