景教について
1)景教の源流
635年、ペルシアから初代宣教師の阿羅本ら21人によって唐代中国にもたらされたイエスの教えを波斯(ペルシア)教と呼び、745年に大秦景教と改称。大秦とは東ローマ帝国のユダヤ、景の字義は大きな光からイエスのこと。彼らは大秦景教と呼んだ。
781年に長安(現在の西安)に建った「大秦景教流行中国碑(大秦からイエスの教えが中国に伝わった碑)」には、メシア降誕のとき東方から来た博士たちを波斯(ペルシア)からの来貢と記し、聖霊降臨日には、使徒の説教を聞いた者の中に「パルティア人、メディア人、エラム人」(使徒2章9節)らがいたとあり、両者とも西アジアの離散のユダヤ人らがメシア待望の時期、イエスがメシアであると聞いて信じた者らが東方に拡大していった。
特にイエスの12使徒のトマスがインドへ、70人弟子のアダイらがシリアへ宣教し、150年ごろから、シリアのエデッサ(現在のウルファ)を都とするオスロヘネ王国はイエスを信ずる王国となり、シリア文化が栄えた。ここでシリア語に翻訳された聖書をぺシッタ(350年ごろ新約完成)と呼び、神学、哲学、医学、地理などを教える総合大学が作られた。さらにニシビスやペルシアに広がり、神学校が設立され多くの指導者が起き、東方の中国宣教へと向かうことになる。
当時の唐帝国とペルシアやローマの東西は陸路や海路で交易が盛んに行われ、バグダッドと長安はアジア最大の都市で栄え、多くの商人の中にペルシア人やソグド人信徒がいて中国宣教が実現した。彼らがシリア語から漢訳した聖書(経)・賛美歌(讃)・教義(論)や地理を皇帝に伝えると、638年に宣教許可が下り各地に旧称で波斯胡寺、後に大秦寺・景寺の会堂が建った。碑には聖書の教えや景教史、西域地理、各皇帝との関係を伝え、玄宗の時代に安史の乱が起き、景教徒の伊斯らが皇帝を支えたことを伝えている。しかし、845年ごろになると武宗皇帝による道教以外の禁圧から景教も国外追放に遭い、碑は地に埋められ、1625年ごろに発見されたことから、景教が世界に知れ渡るようになった。
元代には也里可温(エリカオン・福音)と改称して発展したが、明代に禁教となった。景教はネストリウス派といわれるが蔑称で、本人たちはネストリウスの用語は使わず、また異端説も見直されている。遺跡、遺物として高昌や敦煌の会堂跡から壁画や文書が見つかり、中央アジアから中国各地にはシリア語や一部トルコ語で刻された千個以上の十字墓石、金属十字徽章、聖書類などが発見された。北京郊外の三盆山には元代の也里可温教徒の会堂跡が遺る。
2)特徴
①彼らは聖書、賛美歌、教義書を持ってきていた。碑には新約27、旧約24と刻され、24はユダヤ教聖書の数の影響がある。聖書はヘブライ語からシリア語に翻訳され、文書類はシリア語のメシア(弥施<師>訶)表記で、煉獄思想も外典もなくマリアや諸聖人崇敬もない。唐代には500以上の漢訳書があるものの、発見されているものは10数点にすぎない。
②神は「三一」で、父を阿羅訶、子を弥施<師>訶(メシア)、聖霊を浄風(ルハー)と表記。敦煌作の『一神論』は創造論を説き、シリア語から漢訳した『三威蒙度讃』は三一神を賛美している。
③十字架の贖罪を常に信じていた。彼らの信仰のシンボルは十字で、多く発見された墓石には必ず救いの証しとしての十字が彫られている。景教碑の頭部も然り。
日本への景教の宣教は史料がなく不詳。大阪の武田科学振興財団杏雨書屋には唐代作『一神論』『序聴迷詩所経』ほか貴重な原本が所蔵されている。
3)今後の活動
①各地で景教セミナーを実施し東回りのキリスト教を正しく理解し啓発したい。②国際景教研究会の各国の研究者同士の相互交流と研究発表を通して新しいニュースを共有する。③景教資料館を建て、資料を通して日本宣教と教会形成にヒントを与える一助になればと考え、そのために支援会員(年会費3千円)を募っている。連絡先はメール([email protected])、携帯電話(090・3955・7955)の川口まで。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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