景教碑は、則天武后・武則天(在位690〜705)の聖暦年(698〜699)に仏教徒による景教徒への迫害があったことを刻んでいます。
「聖暦年に釋子(釈迦の信徒)は壮を用いて口を東周に騰(あ)げる」。迫害された要因として、高宗の死後、690年に武則天は聖神皇帝として即位し実権支配しました。都を長安から東の洛陽に移し、国号を唐から周としました。李王朝の宗教は道教で、それを変え、彼女が仏教徒ゆえに宮中や政治において仏教徒が優位を占めることになり、景教徒たちはさまざまな立場で追い詰められ、迫害を受けたということです。
さらに、彼女は弥勒菩薩の再来を唱え、大雲経寺を全国に作らせています。また、洛陽近郊の竜門石窟に自らの仏像を作らせました。その仏像に似たものが、奈良にある東大寺大仏の盧舎那仏(るしゃなぶつ、770前後)です。
武則天は自分を誇示するため、新しい漢字を作りました(690)。則天文字といわれ、約17字があり、それによって皇帝としての自分の立場と新時代を想定したのでしょう。圀や臣の字は日本にも入りました。水戸光圀の圀はよく知られています。國の中の或は、国が惑ってはいけないことと、国は八方に広がることを考えてのことなのでしょう。
下の拓本は愛知県春日井市松河戸町の道風公園に建つ江戸時代1815年作の小野朝臣(道風)遺跡碑で、臣が則天文字です。拓本採取は著者によります。
武則天皇帝は15年にわたる支配の中で元号を16回も変え、皇后だった高宗の時代にも13回改元しています。これらは何を示しているのでしょうか。
この夫婦の合葬墓が陝西省乾県の乾陵墓にあります。そこを景教ツアーで訪ね、大変膨大であることに驚きを隠し切れなかったことを覚えています。陵墓の前に無字碑が建っていますが、字が一つも彫られていないことが有名で、字の無い石碑がどうして存在したのかが疑問です。彼女が成してきた功罪是非が問われているかのような大きな碑でした。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
外山軍治著『則天武后』(中公新書、1966年)
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