中国の唐代皇帝の宗教は道教(タオイズム)でしたので、道教の指導者は皇帝に重んじられ、皇帝にまみえるのも優先されていました。唐を設立した高祖の李淵(565〜635)の先祖は、道教の創始者で春秋時代(紀元前500前後)の思想家の老子(神格化して太上老君と呼ぶ)との説もあります。老子は実在の人物かどうかの議論もあり、諸説はあるものの、李王朝はそう考え、道教は中国の文化に浸透し、漢民族の宗教ともいえます。
ここで道の字について、道は首と走の合成字で首は最初、走は足から最後をそれぞれ意味し、道の本質を知ることが解決の糸口といえる字です。道教の神々は多神教で、元始天尊、霊宝天尊、道徳天尊の三者がいて、その姿は白髪の高齢者で、到底不滅の神とはいいがたい偶像崇拝教です。書物には『老子道徳教』があり、現在は台湾や東南アジアに信徒が多くいると聞いています。
唐代は、李淵やその子の太宗皇帝が窮地に陥ったとき、老人のような人物が現れ、指導したとの言い伝えがあり、その老人こそ老子だと伝えられているほど、唐皇室と道教は離れがたい関係にありました。しかし唐末には錬丹術がはびこり、武宗や宣宗皇帝がそれにより中毒となって命を失い、唐が滅びた一因があるとの説もあります。
景教碑には道教用語の「元尊、天尊、道」があり、景典にも「奥道、妙道、妙有」などがあります。幕末に漢訳された新約聖書ヨハネ1章1節には、ギリシャ語のロゴスを「道」と訳していて、中国語繁体字でも「太初有道 道與 神同在 道就是 神」と訳しています(國際聖経協會発行、1999年)。日本語の聖書では、はじめに「ことば」があったとか、「言」と訳しています。どの時代においても翻訳作業の苦慮がうかがえます。
景教碑には、皇帝に会った初代の宣教師と随行員たちが長安の西に迎えられ、書殿では経典を翻訳し、宮中では「道」を問うた、とあります。「西郊賓迎入内翻経書殿問道」。この道とは、景教の教え、神、救い主のことかと考えます。
このように道教用語を使用したとしても、道教化したとはいえません。宣教において大切なこととして、現地語に訳して現地人に福音を伝えることは必須で、それなしには福音宣教と教会形成ができないからです。
道教経典の『十戒経』には「1)殺さず、2)姦淫せず、3)盗まず、4)偽善の言葉を使わず、5)酒を飲まず、6)親をののしらず、7)善を喜び、8)人を助け、9)悪に報いず、10)道を求めて生きよ」がありますが、これらは人間関係のレベルであり、地上の道徳にすぎません。
道教と景教の用語には同じ部分もありますが、違いもあります。景教は父・子メシア・浄風の三一神を伝え、万物の創造主の父を尊び、子は死からの復活・昇天と着座を通して救いを完成したメシアと賛美し、聖霊は人を天堂(天国)に導き、救いを証しする方として伝えています。道教は不老長寿を伝え、高齢化した白髪の老子をあがめていますが、永遠のいのちの証しとしての死からの復活はありません。景教は唐代で三一神と死からの復活を伝えていた唯一の救いでした。
碑文の訳です。「真の主(父)は、はじめなく永遠に存在され、はじめに天を立て、地を起こし巧みに造られました。分身(子メシア)が世に出て限りない救いをなし、日を昇らせ闇を滅ぼし、(浄風による)証しはことごとく真実です」
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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