どの時代にも、どの地域でも信仰者には迫害が伴います。そのことについて、唐の時代の中国で起きたことを記してみたいと思いました。
中国には古代からさまざまな宗教がありました。道教と儒教以外の仏教・景教・ゾロアスター教・マニ教などは外国から入った外来宗教です。特に仏教は、紀元前にインド発祥の哲学から発展して、北方に向かうとシルクロードでギリシャ文化と遭遇し、ギリシャ風の釈迦仏像を作って拝む形をとりました。一説に紀元前後に中国に入ると、時代や文化、皇帝の影響を大きく受けて中国風に変化していったのも中国仏教の姿です。
景教碑には、女帝で仏教徒の則天武后の聖暦年(698〜699)に仏教徒らが優位となり、景教徒たちは釈迦の弟子たちの「釋子(しゃくし)」から迫害を受けたとあります。この時にとった対策として、幾人かの指導者らが長安に来て彼らを励まし、景教が失われないようにしたと記しています。
さらに、景教徒たちが中国から国外に追放される事件が起きました。845年前後からの会昌の時代に行われた「廃仏」運動で、仏教徒側からは「三武一宗の法難(仏法の難)」といわれるものです。それは、北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗の三武皇帝と後周の世宗皇帝によるもので、中でも唐代末の会昌の廃仏事件は最も激しく景教にも多大な影響を与え、中国外に追放されたり、還俗させられたり、殉教も起きました。
皇帝側からすれば、仏教が強大化して金銭によるわいろなどがはびこり、大変危惧することでもあったことから、武宗皇帝(在位840〜846)は時の総理大臣の李徳裕と道教徒で筆頭道士の趙帰真によって廃仏のために弾圧を加えたといわれます。これが「会昌の廃仏」というものです(中国の史書『旧唐書』『資治通鑑』が伝えている)。
この時に景教徒たちは多くの苦難を経験しました。彼らは都の長安から北は今のモンゴルに、南は海沿いの福建省近辺に、西は中央アジアに離散したと考えられます。北京近郊の三盆山には元の時代の会堂跡と十字寺碑と彫られた大きな石碑、シリア語の聖書の詩編が彫られた遺跡があります。また中央アジアのキルギス周辺には、景教徒たちの十字マークとシリア語で彫られた墓石類が多数発見されています。
景教徒たちは滅ぼされたのでなく、離散した先で信仰生活をしていきました。著者が2018年の春にキルギスに行き、墓石から拓本をとりました。それには、十字の先端に3個の〇をつけた三位一体のマークとシリア文字が彫られています。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
◇