密教は紀元7世紀以降インドで起こり、主要経典の『大日経』は7世紀半ばにインドのどこかで成立し、『金剛頂経』は7世紀後半に南インド(?)で成立したとの説があり、二経典が中国やチベットに伝わり、朝鮮や日本にも伝わりました。
密教信者らは主尊で至高仏の大日如来と諸仏を拝み、その本質を図絵の曼荼羅で示します。教えは秘密で、仏を体得する方法が種々の灌頂儀式です。それにより諸仏とつながり、縁を結ぶといわれます。空海は中国で体験して遍照金剛の名を受け、大日如来の化身といわれました。彼は長安で多くの人物と出会い、儀式や教学などいろいろ体得しました。
さて、景教と密教の関わりですが、仏教学者の高楠順次郎(1866〜1945)は、北インド出身の僧の般若三蔵(734〜810、彼については788年に中国で書かれた『貞元新定釈教目録』の中の「般若伝巻17」に出る)と、781年に建った景教碑の撰述者・景浄とが密教経典の胡語(ソグド語)による『大乗理趣六波羅蜜多経』7巻を共訳(788年)したことを発見し、景教と密教のつながりについて唱えました。
この2人による共訳について般若伝には「釈迦の教えと景教とは行いも教えも別のもの、ペルシャ僧の景浄は弥尸訶(メシア)教を伝え、釈子は仏経を弘める」とあり、般若三蔵は胡語と漢語が分からず、逆に景浄は梵語が分からず、仏経も訳したことがないなどと両者の違いを伝えています。
般若三蔵と景浄が出会うきっかけを作った人物について般若伝には、般若三蔵の母方の従兄弟で、同じ北インド出の羅好心という人物とあります。彼は唐軍の西方を進駐する神策軍の大将で、すでに景浄が景教碑を建て、その名声も広まり、景浄がソグド語も漢語、古典漢文も知っていたことから、景浄に頼み込んでソグド語の仏教経典を訳したかったのだと思います。従って、これは景浄から翻訳を申し出たのではないと考えます。
『貞元新定釈教目録』は、空海が遣唐使として805年に滞在した西明寺の僧で仏教史家の円照の著作で、空海は彼からも仏教を学びました。般若三蔵からは梵語や密教を学びました。
般若三蔵が中国南部の広州から長安に来たのが、景教碑が建った781年か翌年で、彼は中国に来る前には南インドにいたといわれます。南インドは、使徒トマス教会の会堂や信徒が多く存在していた地であります(今も使徒トマス教会と信徒が多い)。このことから、景浄と般若三蔵と空海の三者は出会っていたとの推論が起き、空海密教学に景教の影響があるとしましたが、あくまでも推論にすぎません。空海の書物には景教や景浄の文言は一切見られません。
『空海辞典』(金岡秀友編、東京堂出版、1979年)の景教の項では「景教が密教および空海に直接・間接の関係があることは明らか・・・」とあり、般若三蔵の項では「景浄から西洋思想についても多くを学んだことであろう。空海思想の幅の広さは般若三蔵との交際によるところが大きい」と書いています。
さて、密教の重要な儀式は灌頂です。日本では最澄が805年に、空海は812年に行いました。空海の灌頂の系譜は、金剛智から始まり、師の恵果へ、そして空海に伝わりました。灌頂は、仏とつながるために頭に水を灌ぐ儀式でキリスト教徒の洗礼に似ていて、インド発祥の灌頂が、空海が見聞したと思われる景教徒の洗礼式の影響との説がありますが、それは再考する必要があります。なぜなら、灌頂の時に目隠しして花を投げる投華(花)得仏儀式は聖書になく、聖書に浄風による新生があるのと大きな違いもあります。ちなみに、東方教会の洗礼は浸礼(水に浸かる)である浴水と考えられます。
続いて空海の重要な教えは即身成仏です。密教修法により「この身で仏に成れる」というもの。これは死者を荼毘(火葬にすること)にする伝統仏教とは違い、「死なないでいつも生きて、信徒をあまねく照ら(遍照)し指導している」というもので、空海は死んではいないと多くの空海信徒は語っています。
その原点は、景浄たちの景教信仰を見聞きし、イエス・メシアが事実死から復活し、永遠の光、真のことば、永遠のいのちとして今も生きて救い続けているところからヒントを得たのではないかと考えます。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
『空海辞典』(金岡秀友編、東京堂出版、1979年)
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