中国浄土教の善導と景教について考えたいと思います。唐代の中国浄土教の有名な指導者は善導(613〜681)です。彼は20代後半に晋陽にいた道綽(どうしゃく、562〜645)から浄土教典の観無量寿経の教えを受けました(浄土教典には『無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経』の浄土三部経がある)。やがて長安の光明寺に道場を開いたことや大慈恩寺などに住み、645年に道綽が死ぬと、浄土教の念仏を弘(ひろ)め、やがて長安より西南の終南山にも住み、最後に光明寺の門前の柳の樹から投身往生を遂げたとの説も伝えられています。
日本の法然(1133〜1212)と親鸞(1173〜1263)らは善導の著作から多大の影響を受け、法然は自著の『選択本願念仏集』(1198年作)の最後に、善導は阿弥陀如来の化身と書いたほどで、親鸞も『高僧和讃』(1248年ごろ作)で同様のことを書きました。
善導が説いた救いとは、どんな者でも「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名を称えることにより極楽浄土に入ることができるという「称名念仏」で、南無(帰依する、信頼するの意味)と称えることができるのも人間を極楽浄土に入れるために本願修行した阿弥陀が信者に差し向けてくれたもの、だから阿弥陀は称える者を浄土に行かせてくれる、阿弥陀の名を称え、浄土に入れることは、一方的な計らいという他力本願の考えです。これぞ浄土教の福音といえるでしょう。これらの浄土教典はいつ頃創作されたかは分かりませんが、北西インドで紀元前後に作られたという説があります。
阿弥陀の意味は永遠の命・永遠の光で、新約聖書ヨハネの福音書に啓示された「永遠の命で永遠の光であるイエス」から取り入れたのではないかと考えるのです。イエスの救いの福音は30年代の聖霊降臨後に東方にも伝わり、使徒トマスも復活のイエスの福音をインドに行き宣教しました。それが浄土経典の制作に多少なりとも影響したかどうかが問われます。
さて、景教の初代宣教師の阿羅本が長安に来たのは635(太宗皇帝の貞観9)年、善導が22歳の時でした。その3年後、太宗皇帝の勅令として長安の義寧坊の一角に波斯胡寺(後に大秦寺と改称)が建ち、全国に宣教が開始されました。当然、仏教徒にもその知らせが届いたことでしょう。景教は諸国に大秦寺会堂を建て、終南山にも会堂が建ちました。ですから、善導が景教の説教や儀式を会堂で見聞する機会があったと考えます。
善導の著作の中に、阿弥陀仏を賛美する讃仏歌や極楽浄土への往生を願う緩やかな旋律で歌う『六時礼讃偈』があります。これは、景教碑に彫られ、実際に景教徒らが行った「七時礼讃」※注(1)から影響を受けたと考えます。
なぜならインド仏教はもともと仏への賛美がなく、一方で景教徒たちは、紀元前に作られた旧約聖書の中の多くの賛美歌や詩編歌を賛美し、三一神への賛美が中国に入る前からシリア語訳でささげられていたからです。景教徒たちが神の霊感を受けた聖書の賛美歌をささげることにより魂を強め、聖霊により力強く信仰の道を導かれていた姿に、善導は大きな影響を受けたことと考えます。
極楽浄土や阿弥陀は人が作り出した架空の場所・人物で、霊感されていないことは言うまでもありません。ですから『六時礼讃偈』の「往生の行」の最終文では「命の終わる時まで修行するがよい。一生のあいだ行ずることは、少し苦しいようではあるが・・」※注(2)と修行を勧めています。それは、善行がなければ不安の残る、救いのない苦しい自力宗教と言えるでしょう。
聖書は、現実に人となって罪深い者に「あなたの罪は赦(ゆる)された」と宣言したイエス、しかも死から復活されて永遠の命を保証し、昇天して天国を備えられたことを証しし、聖霊を心に宿して賛美し、希望をもって生きていく多くの証しで満ちています。そういうことで、浄土教とは大きく違う点かと考えます。
※ 注
(1)旧約聖書詩篇119篇164節には「私は日に七度、あなたをほめたたえます」とあります。
(2)藤田宏達著『善導』(講談社、1985年)336ページを引用。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
藤田宏達著『善導』(講談社、1985年)
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