今回は、仏典と聖書の男女観、特に仏典の「変成男子」の教えと聖書偽典との関わりについて書いてみたいと思います。
1. 聖書偽典の『トマス福音書』の女性観
知識や知恵を特質とするグノーシス宗教はキリスト教ではありませんが、彼らの著作と仏典とがよく似ている部分がありますので書きました。『トマスによる福音書』(荒井献著、講談社、1994年)の114に次のように訳された文(最終文)があります。
シモン・ペテロが彼らに言った。「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。イエスが言った。「見よ、私は彼女を(天国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」
これによれば、女は創造主なる神に似るのでなく、男に似て男と成る、天国は男ばかりの世界となります。
トマスとはイエスの使徒の一人でありますが、それはトマスの名を偽って使用した偽書で、使徒トマスが書いたものではありません。ペテロの名を勝手に使用して書いた『ペテロによる福音書』と同様です。この内容から見ますと、女はけがれているので天国に行けない、しかし男に成れば行けるというもので、これを「変成男子」の教えといい、底辺には男尊女卑の考え、女は救われないとの考えがあったと思われます。
実際に使徒たちがそのように考えていたというのではなく、当時の男女には性差別や社会での不平等などがあったと考えられます。
グノーシス神話論では、創造の神は創世記が教えるエロヒームなる神ではなく、地に落とされた悪の作り主デミウルゴスで、それによって作られたアダムは男女の両性を具有し、エバがアダムから離れたことにより死が入り、アダムにエバが再び入ることによって命に生きると考えました。そしてデミウルゴスは悪の神だから、新約になって善と愛の神がイエスによって人を救おうとしたと考えました。これが異端の考えです。女が男に成るとの人間的考えは、大乗仏教の成立にヒントがあったのではと考えます(これについては研究の余地があります)。
2. 仏典の男女観
これと似た教えが、法華経の提婆達多品の最後の文と浄土経典(無量寿経8−35)に見られます。
妙法蓮華経提婆達多品第十二
「そのとき、サーガラ竜王の娘は、世間のすべての人々が見ているところで、また長老シャーリ=プトらの眼前で、彼女の女性の性器が消えて男子の性器が生じ、みずから求道者となったことを示した。そのとき、彼女は南方に赴いた。そこで、南方にあるヴィマラー世界にとどまり、七宝づくりの菩提樹の根元に坐り、みずから「さとり」をひらいて仏となり、三十二種の吉相と八十種の福相のすべてを具えて、光明で十方を照らして教えを説いている姿が見えた」(『法華経(中)』[岩波書店、1991年]225ページ)無量寿経8−35
「世尊よ。わたくしが覚りを得た後に、あまねく無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土にいる女人たちがわたくしの名を聞いて、きよく澄んだ心を生じ、覚りに向かう心をおこし、女人の身を厭うたとして、(その女人たちが)(この世での)生を脱してからふたたび女人の身を受けるようなことがあったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように」(『浄土三部経(上)』[岩波書店、1991年]44ページ)
ほかに『仏説転女身経』や般若経類にも変成男子思想があります。
これによりますと、仏国土はすべて男であり、菩薩も男で浄土はすべて男たちであふれています。一方、女が菩薩や仏になったと聞いたことがなく、仏も菩薩も男性名詞です。仏教では、女人成仏はあり得ません。あり得るとするなら、男性となり修行して励むことです。その証しとして髪の毛を剃り、男になり性転換することです。しかし実際は不可能ですし、限界があります。男も生まれながらでは仏に成れず、出家して髪を剃り修行に励むことです。女はなおさらけがれているために、そのままでは輪廻転生して地獄にも行くのです。
このようなことから、大乗仏教の女性観として女でも成仏できるように仏典が作られたのが、前掲の変成男子の教えということになります。「突然女性器は消えて、男性器になって生まれ変わった」という突然変異論が作られ、浄土は全員男ばかりの世界となります。
仏教と仏典の成立背景にはヒンズー教の影響があり、『マヌ法典』には女の男への三従も説かれています。釈迦自身も女はけがれているとし、男女を差別しています。スッタニパータ835には、女性は「大小便に満ちた」とか「婦人は愚かで」ともあります。
3. 聖書の男女観
聖書の男女観は、創世記で神の栄光のために男を創造し、男から女を造り、夫婦一体として生きるよう、男も女も創造主に似せて造られたと教えています。しかし、創造主に反逆して罪を犯したために男も女も汚れ、神を喜ぶことも、神の栄光を現すこともできなくなり、追放されて滅ぶ者となったと教えています。
その回復としてキリスト・イエスの出現と聖霊の働きにより、本来の姿に再創造され、神の栄光を喜ぶ者になれる(なれた)と教えています。
聖書の男女観は、仏典が教えているものとは大きな違いがあります。それは、仏教の背景と成立が人間から出ていて、聖書は男女を造られた創造主の霊感を受けて書かれたもので、大きく違うのではと考えます。もちろん聖書の中には、差別していたパリサイ人の話も出ています。しかし、キリスト・イエスの周辺には女性も多く、救いは男女の区別なく等しく、男女の誰もがキリスト信仰によって救われると教えています。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
荒井献著『トマスによる福音書』(講談社、1994年)
『法華経(中)』(岩波書店、1991年)
『浄土三部経(上)』(岩波書店、1991年)
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