8月28日から公開されている住野よるの同名小説を原作とした映画「青くて痛くて脆(もろ)い」。主演は今をときめく吉沢亮、杉咲花。前回、映画化された「君の膵臓(すいぞう)をたべたい」のような純愛ドラマを期待したら、大きなしっぺ返しを食らうことになる。人間の心の恥部を見事にえぐり出した快作と言っていいだろう。
人の意見に反論せず、誰とでも一定の距離を取って付き合うことを信条とする平凡な大学生、田端楓(かえで、吉沢亮演)。彼が入学時に出会ったのが、空気を読めず、自分の理想をストレートに語ってしまうことで周りから浮いてしまう女子学生、秋好寿乃(あきよし・ひさの、杉咲花演)であった。秋好の積極性に引きずられるようにして、田端はいつしか彼女の理想(誰もがなりたい自分になれる世界、戦争がなくなる世界)を実現させるサークル(秘密結社モアイ)の結成に手を貸すことになる。
最初は斜に構え、秋好を内心バカにしていた田端だったが、次第に秋好との活動に喜びや意義を見いだしていくこととなる。それにつれ、仲間も増え、協力者も集まり、「モアイ」は急成長を遂げていくのだが――。
これ以上物語に触れると、ネタバレになってしまうので語れないが、物語の中盤で大きな「どんでん返し」がやってくることは伝えてもいいだろう。それは、私たちが無条件に信じてきた「前提」が揺れる瞬間であり、白を「黒」と呼び、黒を「白」と呼んでいたことが判明する時でもある。
だが、この「どんでん返し」が物語の肝ではない。事態がちゃぶ台のようにひっくり返った後に見せる主人公たちの「本音」が、本作最大のネタである。そして今まで第三者的立場でこの2人の物語を追い掛けてきた観客である私たちにも、鋭い問いを突き付けてくることになる。
本作のタイトルはある種、独特である。「青くて痛くて脆い」とはどういう意味なのか。それが明らかになるとき、SNS世代のみならず、人間としての「罪性」が浮かび上がってくる。
特に日本人には、この種の罪性が根深く存在しているように思える。例えば、とても気が病んでいるにもかかわらず、一見何でもないように見せてしまったり、本当は欲しいと願っているのに、「そんなもの興味ないよ」という態度を過度に示してしまったり、などである。この本音と建て前との乖離(かいり)が人を苦しませ、またその齟齬(そご)の狭間に悪しき誘惑が入り込む余地を生んでしまう。だがそれを直視できない。そんな勇気がないのだ。そもそも自分が、そんなカッコ悪い状況に追い込まれたと思いたくはない。
CHAGE and ASKA の楽曲「YAH YAH YAH」の歌詞に、「必ず手に入れたいものは、誰にも知られたくない」というのがある。だが、もしも誰にも知られたくないことを他人に、しかも絶対に知られたくない人物に見透かされていたとしたら。しかも、見透かされたくないと考えていた本人だけが気付いていなかったとしたらどうだろうか。そんなばつの悪さを、本作は「痛い」と表現している。人の一生(例えば80年以上の長い年月)で見るなら、そんなばつの悪さも「一つの経験」といえるだろう。しかしまだ社会にも出ておらず、人間形成の途上にある「青い」大学生であれば、それは、忘れてしまいたい「痛い」出来事となるはずだ。そして、そんな青さを素直に認められるほどの耐性がなければ、それは「脆い」ということになろう。
そんな未完成で、未熟で、そして実力不足な「若者たち」が、素手でつかみ合うような泥仕合を演じる様。それが本作で描かれる登場人物たちの本性である。そしてこれは、決して「若者たち」だけの特質ではない。こういった現実を、多くの大人たちは常に「今の若けぇモンは」と揶揄(やゆ)してきた。私たちも言われてきたし、今は言っている。だが果たしてそうだろうか。「青い」思い出、「痛い」経験、「脆い」自分自身を、今を生きるどんな世代も体験しているのではないだろうか。
先日、フェイスブックで友人となっているある牧師が「若者に教会に来てほしいなら、瑛人の『香水』を聴け!」という論考を発表しておられ、私も大変教えられた。そこでは、今はやりの「香水」の歌詞から現代の若者の特質を、昭和世代の「いちご白書をもう一度」との対比で見事に活写してくれていた。その中でその牧師が語っていたのは、「挫折ではなく、屈折した主人公」の実態であった。これと、本作の主人公たちのそれとはとても似通っている。そういった意味で、本作は現代の若者の実態を見事に描き出しているといえよう。
だが、私はそういった評論家めいた視点だけで本作を評することはできなかった。なぜなら、今なお、私の中にもそういった「挫折感」がくすぶり続けていることを感じているからである。私にとっての本作は、老若男女を問わず、心のカサブタを引っかかれるような痛みを与える作品であった。
本作を観終わって、次の聖句が浮かんできた。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。(中略)ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。(ローマ7:15~19)
本作のラストは、意見が分かれるところである。罪に翻弄され、罪の自覚を得た主人公たちは、果たしてあの後どんな行動を取るのか。それを教会の中で語り合ってみるのはどうだろうか。すると分かるだろう。最初は「作品の評価」を語っていたのに、いつしか「自分自身の青さ、痛み、脆さ」について語り始めていることに。
これは、鑑賞する映画ではない。語り合うための映画である。
■ 映画「青くて痛くて脆い」予告編
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