住野よるのデビュー作にしてベストセラーとなった同名小説を映画化。割と原作に忠実でありながら、多くの観客を呼び込むためか、映画ならではの大胆な改変が施され、これが単なる中高生向け恋愛映画という域を越える大きな要因となっている。
筆者は原作を発刊当時に読んでいる。そのままの映画化かと思いきや、小栗旬や北川景子など、登場人物が大人になってからのドラマも挿入されるとあって、公開前から興味を持っていた。主題歌がミスチルだというのも大きな動機づけになった(笑)。
作品のタイトルがこの上もなく奇抜で、人目を引く。これをそのまま解釈するなら、ジョージA・ロメロ監督のゾンビ映画のようなホラーを連想させるだろう。しかし、ジャンルとしてはまったく異なる人間ドラマである。
主人公は高校生の男女。だからといって、昨今大量生産されているJKドラマではない。人間関係を取り結ぶことが苦手な男子高校生(北村匠海)と、屈託ない笑顔で誰とでも仲良くすることのできる女子高生(浜辺美波)。この2人を中心としたひと夏のドラマがストーリーの軸となって、他者との距離感で悩んでいるすべての世代、すべての日本人感覚に染み入る物語が展開していく。
特に教会で若者たちと接する機会が多くなるにつれ、この主人公たちのような心情とその繊細な心の機微に触れることはとても大切な学びの機会となる。今回は、現代日本(特に10代から20代にかけてのデジタル世代)に牧師や教会がどう向き合うかという視点から、この映画を題材にしてひもといてみたい。
原作を読んでいた時から気になっていたことだが、主人公の2人の会話に筆者は違和感を抱いた。その感覚は映画でも忠実に再現されていた。実際に人間の口から発せられることで多少まともに聞こえるが、それでも正直「これ、高校生の会話か?」と思ってしまう。
2人は常に、相手を名前ではなく「君」と呼び合う。関西に住んでいるせいかもしれないが、「君」という言葉は、どこか冷たく人工的な響きを感じる。そして、2人の間で交わされる話題、言い回し、そして話の落としどころが、あまりにもキザで、斜に構えていて、大仰(おおぎょう)であるように思われて仕方ない。
これがノイズとなり、小説でも映画でも、前半はとにかく居心地の悪さを感じざるを得ない。しかし、これが作品の1つのトリックであることに気付かされる物語後半、この見事なミスリードに心地よいほどのカタルシスを得ることができる。
さらに、物語の設定、展開を見ていくなら、誰もがあのベストセラー恋愛小説をイメージすることだろう。「セカチュー」という流行語を生んだ「世界の中心で愛を叫ぶ」である。
確かに重なる部分が多い。病気を患う女の子、その彼女を慕う男の子、そして訪れる悲劇とそこからの再生・・・。この映画を「キミスイ」と省略する形で宣伝しているのも、この似た設定を踏まえてのことだろう。
しかし、これもまた見事なミスリードである。「キミスイ」は「セカチュー」とはまったく異質の世界へ私たちを誘っていく。「まあこんな映画だろ」と思って見ていた私たちの世界がいきなり反転させられる。このどんでん返しには賛否あるだろうが、筆者は作者(製作者)の落とし穴に心地よいくらい見事に落とされた。
考えてみれば「君の膵臓(すいぞう)をたべたい」というタイトルそのものが、そもそものミスリードである。このギャップにこそカタルシスの粋があると言えるが、それが判明することでやっと物語の全貌が観客に示される。
結末から物語を逆に振り返ってみると、これは決して恋愛映画などではなく、むしろデジタル世代に共通する「生きづらさ」をモチーフにした人間ドラマであったことが分かる。この汲々とした日本社会で、日本人が次第に見失いつつある大切なものを「決して手放してはならない!」と訴える映画だと気付かされる。
教会に通う若者たちだけでなく、現代日本を生きる多くの若者たちは、他者との距離感をどう取ったらいいかで悩んでいる。しかし、そんなことに悩んでいることを他人に知られたくはない。だから気取った言い回し、屈託のない笑顔を振りまき、陽気に振る舞うことが求められる。
ウィットに富んだ会話を巧みに使い分けられる者が人気者となり、集団の中で「勝ち組」となる。手元にある電子機器(携帯、やがてスマホに変わる)から瞬時に相手へ伝えられる「言葉」が内実を伴っているかどうかなど、深く顧みられることはほとんどない。
そんなはれ物に触るような現代日本だからこそ、むしろ歪(いびつ)なまでに「形」のかっこよさが必要とされる。昨今の「クール・ジャパン」を日本人自らが意識し、何とかこのイメージに自分を当てはめようとする。
作品の主人公たちは、このような世界観で生きている。これを善悪で判断することはできない。その在り方をまず肯定しなければ、彼らとの対話は成り立たない。一方、上っ面をなでるような会話だけで、人は真の満足を得ることはできない。これも真実である。
自分はこういう人間、と勝手に心を閉ざしたつもりになっていても、内実のある言葉で心の扉をノックされたとしたら、その内面は揺り動かされる。そして、自身の弱さを露呈させてしまう。
男子学生の心の変化はそれを物語っているし、彼が「泣いてもいいですか?」とわざわざ相手に尋ねてから号泣するその姿は、「生きづらい」現代を必死になって生き抜いてきた若者の姿を象徴的に描き出している。同じような経験をしている者であるなら、彼の号泣シーンを見ることで、同じ涙を流すことになる。劇場では、多くの方が涙していた。
そんな社会だからこそ、この物語が訴えるメッセージは私たちの心にズシリと響いてくる。「君の膵臓をたべたい」という、一見野蛮で根源的なメタファーが訴える中身は、聖書が語る次の言葉に似ている。
「『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」(マルコ12:31、口語訳)
クライマックスで用いられるのは、若者たちが通常用いているメールやかっこいいキザなセリフではない。アナログの代表格と言ってもいい「日記(共病日記)」と「手紙」である。
メール全盛の現代だからこそ、逆に手書きの日記や手紙の重みは格別なのかもしれない。瞬時に相手に届くというデジタル機器(メール、ブログ)の利便性は確かに有用だが、届けられるのにタイムラグが発生するアナログ機器(日記、手紙)のもどかしさは、瞬時に伝わらないからこそ、ここぞという時に相手に伝えられる強力なツールとなり得る。
それはまるで、聖書の言葉が現代に伝えられるがごとき所業である。時空の隔たりがあるからこそ、その言葉の内実が確かな重みをもって伝えられるということである。そして伝えられた相手は、たとえ何年の隔たりがあったとしても、そのメッセージを受け取ることで人生が変えられていくのである。この「時」の顕現に、私たちは涙する。
「君の膵臓をたべたい」は、現代の若者たちの世相をうまく用いながら、それとは異なる「旧くて新しい」価値観へと読者・観客を誘う秀作であった。それは、毎週の説教を通してあらゆる世代に聖書のメッセージを伝えようとする説教者が見習うべき技巧、ロジック、そして精神に満ちている。
特に40代以上の牧師たちはこの映画を見るべきである。若者との間に距離感や違和感を抱くようになっているなら、なおのことである。
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