「夜明けの祈り」を試写させてもらった。映画の衝撃はすさまじかった。こうして評論を書いているときも、ふとキーを叩く手を止めてあれこれと考え込んでしまう。
映画の評価は二分されるだろう。それは見る立場の違いでもある。1つは「ヒューマニズム」的視点。この映画の宣伝によるなら「若きフランス人医師の、心揺さぶられる真実の軌跡」である。しかし、映画を見たら分かるが、医師マドレーヌ・ポーリアックは物語の主題からは一歩退いた立場にいる。むしろ、物語の中心にいて私たちに葛藤と混乱を訴えてくるのは、修道女たちである。ここからもう1つの視点が生まれる。それは、「信仰者の生き方」という視点である。
物語の概要や、製作者たちの話は、以前の記事(母になる修道女を支えた実在の女医がモデルの映画「夜明けの祈り」 アンヌ・フォンテーヌ監督インタビュー)に任せよう。ここでは、本編のみに絞って語ることにしたい。
映画はヒューマニズム的視点で見るなら、願わぬ妊娠を強いられた修道女たちが、彼女らのために懸命に手を尽くす医師(マドレーヌ・ポーリアック)によって希望を見いだし、やがてその傷を乗り越えていく物語ということになる。
映画の終盤近くで「あなたは私たちの救世主よ」というセリフを修道女の1人が語るが、近代医学に知識を持つマドレーヌは、前近代的思考にがんじがらめにされている修道女たちを啓蒙し、新たな地平をそこに見させる存在となる。その背景として、ソ連兵士の非道な振る舞いを通して、女性の人権擁護を逆説的に訴える物語とも取れる。もちろん、反戦物語と捉えることも可能である。
しかし、1945年のポーランド、カトリックの(女子)修道院という限定された空間で物語が進行していくことを思うと、やはりもう1つの視点、「信仰者の生き方」という観点が補助線として必要になってくる。
カトリック教会は、1500年間の長きにわたってキリスト教界の本家としてヨーロッパの世界観を形成してきた。やがてプロテスタント教会の誕生により、挙国一致の統治はかなわなくなるが、それでもカトリック国にとって、彼らの存在は精神的支柱であると同時に文化、世界観、そのすべてを束ねる巨大なイデオロギーであり続けた。
その中世的世界観は、確かに時を経るうちに変容しつつあったが、公的にこれらを「今日化」として認めたのは(一部の保守系カトリック信者は「世俗化」と嘆いたが)、1962年から数年間開催された第2バチカン公会議においてであった。ヨハネス(ヨハネ)23世の後を受け、「教会と現代世界との懸け橋を築こう」と訴えたパウルス(パウロ)6世の時代である。
だから、1945年の修道院は、その考え方において周辺世界とは異なる価値観が支配していたことになる。この視点を加味するなら、彼らの苦悩はさらに際立つし、また共産主義の波が押し寄せている中で屹立(きつりつ)する「修道院」という存在そのものが問われることになる。
そもそも「修道院」とは、3~4世紀にキリスト教がローマ帝国内に浸透するに反比例して生み出された宗教機関である。やがてコンスタンティヌスがキリスト教を国教化したとき、修道院の意義は、政治や俗世から隔絶された空間を求める信仰者たちが集まる場へ変化していった。
彼らはこの修道院こそ、キリスト教的真理が具現化された姿であると確信するようになる。俗世の価値観に支配されない「神の国」と見なし始めたのであった。
歴史をひもとけば分かることだが、この修道院もやがて豪華絢爛(けんらん)な富の象徴となっていく。しかし、映画の中に登場するような小さな貧しい修道院は、当初の目的と意義を継承し、俗世から隔絶された「神の国」としての機能を細々と果たすことで歴史を積み重ねていく。登場する修道女たちは、前近代的、むしろ中世的な価値観を善と見なし、その中で魂に安らぎを得ることを求めて集まっていたと考えることができよう。
やがて、俗世から逃れるために生み出された地に「俗世」の象徴たる兵士たちが押し寄せて来る。戦争期における兵士たちの所業といえば「金品略奪、婦女暴行」である。俗世からの来訪者によって非道な仕打ちを受けた「神の国」の住人たちは、新しい命を宿すという形で俗世と交わった決定的な証拠を体に刻まれてしまう。それは彼女らの信仰的価値観からすると、最も赦(ゆる)されざる罪であった・・・。
劇中、ラスト近くに大きなどんでん返しがあらわにされる。それは最も信仰深く、このような悲惨な体験に遭っても、決してたじろぐことなく皆を導いていた修道院長の所業である。ここをヒューマニズム的視点から見るなら、修道院長は赦されざる極悪人となる。
しかし、修道院内の宗教的理念から見るなら、彼女の行動は(決して称賛されることはないだろうが)一定の理解を得ることが可能となる。それくらいギリギリの選択を彼女はしたことになる。この行為は、同胞たちを苦しみから解放し、しかも悪の象徴である存在を神の世界へ送り届け、その罪性を消し去る究極の方法である。
それは「ダークナイト」でバットマンが最後に採った選択にも似て、自己犠牲の精神に満ちた行為と解釈できる。さらに言えば、これはイエス・キリストが十字架上で人類になした行為と重ねることもできる。そういった観点から見るなら、修道院長の行為は信仰者が選択した究極の決断であり、教理的枠内でその行為を解釈するなら、見る者を圧倒してしまう。このあたりが日本人に伝わるかどうか・・・。だから、こういった解説が必要なのかもしれない。
ついに行動に出た修道女マリアは、修道院の禁を破ってマドレーヌ医師を連れてくる。神聖な空間に俗世が再びやって来たのである。しかも今度は「神の国」の住人が近代科学主義の象徴たる医師を連れて・・・。
皮肉なことに、この俗世からの来訪者が彼女らの危機を救うことになる。無事に出産し、母子ともに健康である状態を保つ(少なくとも表面的にはそう見える)のである。やがて修道女たちは驚くべき変化を見せていく。それは母となった喜びを次第に皆で享受していくのである。そしてついにこの修道院は、孤児らを受け入れることで地域の人々へ開かれた空間となっていく。
映画を見終わって、ふと聖書の次の言葉が浮かんできた。
「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカによる福音書17章21節)
劇中、修道女たちは何度も神に問う。「どうしてこんなことになったのですか?」と。もちろん、それに対する明確な答えなど与えようがない。ましてこの映画の中にそれが際立つことはない。しかし、これが実話をベースにしており、このような形で「世に開かれた修道院」となっていくさまを鑑みるなら、あえて大胆に次のように言えるだろう。
俗世が神聖なる空間に入り込んできたが故に、閉鎖的な「神の国」概念が打ち壊され、上述したような意味での「神の国」、すなわち「あなたがたの間にある」と真実に言えるような空間が生み出されたのだ、と。
私は決してソ連兵の所業を見過ごすことはできない。これは人間の卑しい一面であり、今なお世界では同じような唾棄(だき)すべき行為が行われているかと思うと憤りを感じる。しかし、性を罪悪視し、凌辱(りょうじょく)された者ですら罪に定められるという教理は、性に対する歪みを明らかに生じさせてしまう。
なぜなら、そこにいる女性たちもまた、その父母の「性的営み」の結果この世に生まれているからである。彼女らが清廉潔白であることはいい。しかし、社会や文明との関わりを、「教理的善悪」の基準でのみ図るやり方は、おのずとその限界を露呈させることになる。
この映画ではっきりと問われなければならないのは、「神の国」はどこにあるのか?ということである。聖(きよ)い者たちだけが存在し、憩える場が「神の国」なのか? それとも俗世のただ中に、文字通り「あなたがたの間に」存在する現実的な場なのか?
この映画で描かれた一連の物語は、神の国が私たちのただ中にあることを指し示している。キリストを信じる者と信じない者との間に、与える者と奪う者の間に、悲劇と暴力に満ちた俗世と、その俗世の毒気に負けず未来へ希望を見いだす修道院との間に、確かに「神の国」は存在することを高らかに謳(うた)いあげていると言えよう。
■ 8月5日(土)、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開
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