「ブレイブハート」「パッション」の名監督にして「マッド・マックス」「リーサル・ウェポン」シリーズのアクション俳優、メル・ギブソンが、実に10年ぶりに世に放つ監督作品。メル・ギブソンといえば、ここ数年はスキャンダルやゴシップネタの帝王としてハリウッドから完全に排除された「かつての」スターであった。最近は「エクスペンダブルズ3」でS・スタローンに拾ってもらったり、「マチューテ・キルズ」でとんでもない悪役を演じたりして、何とか「食いつないでいる」感満載であった。
しかし、本作を見る限り、「メル・ギブソン完全復活」は決してうそではなかった。作品のアウトラインについては、本紙にすでに取り上げられているため触れないことにする。
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公開直後のレビューを見ると、こんな表現が飛び込んできた。
メル・ギブソン版「プライベート・ライアン」!
確かに本編の目玉である戦闘シーンのものすごさは、大スクリーンで見ることで、その臨場感は観客に伝わる。手が飛ぶ足が飛ぶ、ついでに内臓も見せつけられるし、人がまるで糸の切れた人形のように一瞬で死んでいく。煙や砂ぼこり、そして爆発音と炎の量は、確かにS・スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」を凌ぐものだともいえよう。
しかしメル・ギブソンは、戦闘シーン以上に主人公が選択した「生き方」をめぐる戦いを丁寧に描き出している。それは自身の宗教的立場と、それを許さない厳しい現実との葛藤によって生み出される戦いである。
劇中、主人公デズモンドが信奉する「セブンスデー・アドベンチスト(SDA)」という教団は、保守系キリスト教からは異端扱いを長い間受けてきた。最も非難されたのは、彼らが安息日を土曜日に設定していたことである。それ以外のキリスト教教理に関しては、他の保守系キリスト教とほとんど変わりない(確かに厳密にイエスの位置づけなどにこだわるなら、異論はあるだろうが・・・)。
19世紀末から1920年代に米国で勢力を増した「根本主義」は、聖書を字義通り信じ、その教えを道徳律として生きるよう信者に迫るキリスト教集団である。そして、同じような信仰形態であるがゆえに、細かな違い(SDAの場合は、安息日を土曜日としていること)をことさら取り上げ、自他の峻別(しゅんべつ)を行おうとする。SDAのような集団をマイノリティーとして見下し、他の異端宗派(エホバの証人、モルモン教)と同じ位置づけにしてしまう。
今でも彼らを「キリスト教」内に入れることに躊躇(ちゅうちょ)する人々は存在する。しかし第三者的立場から考察するなら、SDAを含む保守的キリスト教はおしなべて「根本主義的」であることは間違いない。これはいわゆる近親憎悪である。
そういった観点から見ると、デズモンドが軍隊でいじめられ、迫害される中でついに偉業を成し遂げて人々から認められる、という構図は、SDAが米国に認められていく過程をなぞるものだともいえる。しかもこの作品を監督したのがSDA信者でなく、カトリック信者のメル・ギブソンであったことも、彼らの正当性の根拠となる。
また私は、少し個人的な視点からこの映画を見た。鑑賞しながら、幼少の頃に見たある映画を思い出さずにはおれなかった。それは「炎のランナー」である。1981年のアカデミー賞受賞作品であると同時に、キリスト教界では信仰遵守(じゅんしゅ)の最も有名な一例として、説教の例話で数多く取り上げられた物語である。保守系キリスト教会主催の映画会では、「ベン・ハー」や「十戒」と並んで、最もヘビーローテーションされている作品の1つである。
共通しているのは、宗教的信念を強く持った人物を主人公としていることである。彼らは、周囲に自分を合わせることを良しとせず、自分の信仰に基づく根本主義的信念をはっきりと主張する。当初は人々を当惑させ、それゆえに不利益を主人公は被ることになる。しかし、結果的にその信念ゆえに偉業を成し遂げ、むしろそれを貫き通したことが称賛され、伝説化されていくというプロセスをたどる。
「炎のランナー」では、安息日を大切に思うがゆえにレースを棄権するオリンピック選手。「ハクソー・リッジ」では、聖書の十戒の「汝殺すなかれ」を遵守するゆえに、戦場に武器を持たずに出て行く衛生兵。両者に共通するのは、その信仰の特異性、そして周囲の期待や思惑を知りながらも前者を押し通してしまう根本主義的キリスト教の頑固さである。
個人的なことになるが、私が属してきたキリスト教会はまさに根本主義的であった。例えば、日曜日(安息日)を守るために中学校や高校では運動部に入ることが半ば公然と禁止されてきた。信仰熱心な家庭であればあるほど、この縛りは強烈だった。
さらに大学に入ったとき、禁酒禁煙を旨とする教会の教えは、私の中に強く残存していた。だから仲間とコンパや合コンに行くときでも、自分は酒を飲めない、これに触れてもいけないのだ、と強く自分を戒めていた。まさに1980年代のデズモンドが私だった。
当然、友人からは「変人扱い」を受けた。しかし、教会の中では「英雄視」された。世の中に染まらず、神の教えに従って歩む若きホープ、そんな扱いであった。
しかし正直言うと、私の内面には常に葛藤があり、どうしてこんな環境に自分は生まれたのか、というアイデンティティーの危機も体験した。そして「宗教的教理で人を縛るのが真のキリスト教なのか?」という疑問を解消するために神学の扉を叩いた。それが私の人生を大きく変え、今まで体験したすべてが今の私を作り上げたのだと確信を持って言えるようになった。だが、そこまでの道のりは決して平たんではなかった。
「ハクソー・リッジ」のデズモンドの歩みを見ていて、唯一物足りなさを覚えたのは、彼が周囲とのバランスをどうやったら取れるかについて葛藤するさまがないことである。確かに周囲からの迫害はある。不当な扱いを受け、それに耐えるシーンはある。しかし、これが映画の中では「彼の信心(信念)ゆえ」としか描かれていない。実際には多くの内面的葛藤があったのではないか?
「炎のランナー」も「ハクソー・リッジ」も、彼らが信念を通せたということは、言い換えるなら、周囲が彼らの特異な信仰形態(わがままとまでは言わないが)を間接的に受け入れた、ということでもある。それはその時代、その特異な状況で初めて両者共通の思いが芽生えたのであり、これを普遍化することはできないはずだ。
しかし、既存のキリスト教界、特に戒律的な姿勢で聖書を押し付ける根本主義的キリスト教会は、この特異な例を一般化しようとする。これが「炎のランナー」をキリスト教界内でヘビーローテーション化する最大の要因である。「このようにあなたも生きなさい。あなたもきっとそうできるから」と。
しかし、考えてもらいたい。例えば、デズモンドのような生き方を、兵士のほとんどがするようになったらどうだろうか? それでは軍隊は成り立たない。武器を持たずに衛生兵だけが戦場に行く姿は、到底「兵士」とは呼べない。
そして、もしも本当にそのような事態が生じるなら、何らかの対抗手段が講じられるだろう。そうなると、第2、第3のデズモンドが生み出されなくなってしまう。ここに宗教と世俗との相克がある。この違いを意識せず、この世を一元的で平板化された世界だと見誤るなら、根本主義的キリスト教の限界性はおのずと露呈されることになる。
一方、根本主義的キリスト教には限界しか存在せず、世俗によって規制されてしまうのか、というと決してそんなことはない。だとしたらこのような伝記映画はできないし、ヘビーローテーションで語られる伝説にもなり得ない。特異な状況とタイミングの中で、上記の限界を超越する瞬間が起こることは、決して否定されるべきではない。時としてそんな奇跡が起こることは「あり」なのだろう。
オリンピックを宗教上の理由で棄権しても、次のレースでそれ以上の結果を出せることが現実には起こるのであるし、武器を持たないまま戦場に赴き、75人もの命を勇敢に救うこともあり得る。世俗社会に対し、キリスト教の超越性を示す機会はきっと起こり得る。
だからそのような瞬間を体験した人物は脚光を浴び、その物語が人々に良き影響を与えていくのだろう。これは千載一遇の機会であり、その状況に置かれている自分を見いだしたなら、神に感謝すべきことだろう。
キリスト教界、特に根本主義的キリスト教がこの限界性と超越性をしっかりと見極めることこそ、この映画が日本人キリスト者に訴え掛けているものなのかもしれない。
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