米プロテスタント最大教派である南部バプテスト連盟(SBC)第62代議長で、サミット教会(ノースカロライナ州ダーラム、礼拝出席者約1万人)の牧師であるジェームズ・デビッド・グリアー氏が、所属教会を去り別の教会へ移ること(転会)を考えている人向けに、一般的な目安を示した。しかし一方で、「最高の教会で部分的に献身するよりも、平凡な教会で深く献身した方が良い」と強調した。
「残念なことに、消費文化を生きる私たちは、教会に対する接し方においてもその影響を受けています」。グリアー氏は、自身が運営するポッドキャスト「何でも尋ねて」の最近のエピソード(英語)でそう話すとともに、消費文化が機能する事例はあるが、教会には適用すべきではないと語った。
「家族に関する限り、(消費文化の適用は)適切ではありません。大きな意味で、教会は家族です」とグリアー氏は言う。そして「教会を去ることが賢明だと思うことがあるかもしれませんが、軽く考えたり、軽率であったりしてはいけません」と注意を促した。
しかし、その一方で、「人生は一度きり」のものであり、できるだけ「霊的に健全でい続ける」ことが重要だとも指摘した。「自分が最善の形で用いられる家族(教会)の一員となり、自分の賜物がフルに用いられるようにする(必要がある)」とグリアー氏は強調した。
グリアー氏はまた、通う教会を変える決断において、しばしば見られる誤りについて述べた。ある人々は、これまで通っていた教会に退屈したという理由だけで去っていったり、「楽しそうな見世物(を催す教会)」ができたからといって去っていったりする。
「最悪なのは、さまざまな理由を付けて、さまざまな教会に行くことです」と述べ、「最高の教会で部分的に献身するよりも、平凡な教会で深く献身した方が良い」と勧めた。
また、ある人々は「自分たちのニーズのことばかり考えています」と警鐘を鳴らす。そのようなクリスチャンは、教会のより大きな必要について考えることのない自己中心的な子どものようだと話す。
グリアー氏は、パウロがエフェソの信徒に「成長」するよう諭す場面(エフェソ4章1~16節)を挙げ、霊的賜物の用い方を指南した。
しかし、ある人々は「余りにも長く待ち過ぎたり」、死にかけた教会に留まり続けたりして、成長し繁栄している教会で過ごすべき年月を事実上「無駄にしている」と懸念する。
その上でグリアー氏は、教会には妥協できない複数の条件があるとし、神学的に健全であり、使徒信条などの歴史的な基本信条を含め、福音的な信仰告白をしていることを挙げた。
「福音派の教会は、こんにちの物議を醸す問題に左右されません」と語り、ジェンダー論や性的指向に関する議論をけん制した。「もし、ある教会がその点で不忠実なら、私や私の家族がその教会に留まることはないでしょう」と続けた。
また、牧師が聖書から説教するのではなく、説教が「持論の展開」とすり替わっている教会も去るべきだとし、内向きになっていたり、罪を見逃していたりする教会に通うのも賢明ではないと述べた。
グリアー氏は、「教会を試したり、多くの条件を付けたりするのはやめた方がいい」と言い、「その2つの間に留まることをお勧めします。私の願いは消費者になることではなく、家族の一員になることだからです。その一方で、聖霊の導きを求め、自分が成長できる家族(教会)に所属する必要があります」と語った。
「(教会は)あなたが御言葉に生かされ、家族にとっても良き場であり、あなたの賜物が生かされ、用いられる場であるべきです」
「もしあなたがそうではない教会にいて、転会すべきなのだろうかと思っているなら、私の助言は、その教会にもうしばらく留まり、祈ってみて、神が働いておられるしるしが見られるなら、留まるべきだということです。そうでない場合は、別の教会に行ってみるべきです」
「忠実であってください」とグリアー氏は言い、「(教会の)単なる貢献者であってはいけません。(教会に)献身してください」と結んだ。
米ライフウェイリサーチの調査(英語)によると、教会に通っている米国人が転会を考える一番の理由は「教会が教義を変更したとき」(54%)で、次が「引っ越しをしたとき」(48%)だった。その後、「説教スタイルが変わったとき」(19%)、「牧師が変わったとき」(12%)、「家族が教会を変えたいと希望したとき」(10%)、「教会の政治的見解が自分と違うとき」(9%)、「教会の音楽スタイルが変わったとき」(5%)、「個人的な対立があったとき」(4%)、「友人が出席をやめたとき」(3%)が続いた。一方、6%は「(転会の)必要を感じたことがない」と答えた。
転会のタイミングの見分け方について、米神学者のジョン・パイパー氏は、自身が主宰する宣教団体「デザイアリング・ゴッド」のウェブサイト(英語)で、初めに健全な教会の特徴を認識すべきだと勧めている。
「まず第1に、教会の指導者。長老や牧師など呼び方がどうであれ、新約聖書は教会の指導者たちを長老または監督、あるいは牧師と呼んでおり、その人たちが神の言葉に深く忠実に仕えていることです」とパイパー氏は言う。
「第2に、指導者たちが聖餐式や洗礼式を執り行っていることです」と述べ、「第3に、福音に反したり、主に汚名を着せたりするような歩みをする人たちを除名するに当たり、指導者たちが教会戒規を用いていることです」と続けた。
最後に、健全な教会のメンバーは、「互いに愛し合い、教会を愛し、諸国の民に伝道するために、失われた魂を勝ち取ることを求めています。言い換えるなら、教会の使命を果たしています」とパイパー氏は言う。
「従って、これらの4つのうちのいずれかが欠けていたり、深刻な状態にあったりするなら、別の教会を探し始めるべきかもしれません」
「だからと言って、どの教会にも行かない自由があるわけではありません。教会に行かないことは、新約聖書の選択肢ではありません。キリストに属することは、信者の群れに属することです。(信者の群れに)欠けがあろうと、完全なものであろうと。完璧な教会というのは、一つもありませんが」