後藤敏夫氏と岸本みくに氏による講演が9月23日、在日本韓国YMCAアジア青少年センター(東京都千代田区)で行われた。後藤氏が『神の秘められた計画 福音の再考―途上での省察と証言』(いのちのことば社)、岸本氏が『「しあわせな看取り」 果樹園の丘の訪問看護ステーションから』(同)をそれぞれ出版したことを記念するものだ。2人とも札幌キリスト召団のオリーブ山教会と余市教会のメンバー。
この集会は「新スカルの井戸端会議」(主催:札幌キリスト召団関東責任役員会)として、12月まで毎月、全5回にわたって予定されており、今回は第2回目となる。「スカルの井戸端」とは、イエスと「サマリヤの女」(ヨハネ4:1~42)が、サマリヤの町「スカル」(5節、新共同訳は「シカル」)にあった「ヤコブの井戸」のそばで「永遠の命に至る水」についての大切なやりとりを行ったエピソードにちなむ。
この集会は、水谷幹夫(惠信)氏(札幌キリスト召団)が十数年前、東京で行った「スカルの井戸端会議」を引き継いだもの。水谷氏は北海道余市で、心病む人や生きづらさを感じる人などが共に暮らす生活共同体「惠泉塾」を営んでいるが、後藤氏も長年の牧会の後、そこで5年間暮らし、現在、千葉県にある四街道恵泉塾に派遣されてきた。岸本氏も、同じ場所にある惠泉マリア訪問看護ステーション(都賀事業所)所長として働いている。
今回、岸本氏は、終末ケアを専門とするナースの仕事と信仰が1つに結び付いた主のための働きについて証しをした。後藤氏は、次男が統合失調症を発症したのをきっかけに北海道に家族で移り住み、惠泉塾での共同生活を通して学んだこと、そして現在考えさせられていることを語った。
余市惠泉塾は、聖書の言葉によって人が健やかさを取り戻し、人間の交わりが回復されていくことを目的としている。それは、やがて新たに船出することを目指す「波止場」であり、聖書に導かれて人生を学ぶ「道場」でもある。
後藤氏の次男がそこで生活を始めたのは2003年。当時、妻も次男も惠泉塾での生活に積極的だったが、後藤氏は距離を置いていたという。
「そこには、父性に次けたふがいない自分に代わって、水谷先生が息子の父親になったというやっかみのようなものがありました。息子がつらい時、一緒にいてあげることができず、倒れている息子のそばをレビ人のように通り過ぎていった自分を、北の地から批判的に見つめられている気がしていたのです」
そんな後藤氏にとって忘れることのできないことが起きた。その年の秋の1カ月を余市惠泉塾で過ごした息子が自宅に帰ってきた時のことだ。その前に後藤氏は、「次男には意思が育っておらず、それを育てるのは父親の責任」という指摘を受け、打ちのめされていた。牧師館のドアが開き、次男から開口一番、「お父さん、話があるのだけれど」と言われた時、後藤氏の口をついて出てきたのは「お父さんに何がしてほしい」という言葉だった。すると次男は、「僕の肩に手を置いて祈ってほしい」と言い、その通りにすると、次男もまた後藤氏の肩に手を置いて祈ったという。
「『お父さんに何がしてほしい』という言葉は、打ちのめされていなければ出なかった言葉です。人生にはこのようなぎこちない濃密な時があると思う。幼児のように貧しくされ、魂が打ち砕かれた時に神様が与えてくださる時間なのではないか。今、次男は、『丹波の宿』という惠泉塾が経営する旅館で働いています。その後も、私がうつになったり、妻もクモ膜下出血で倒れたりするなど、困難はあったのですが、あの秋の牧師館での玄関の出来事は、私を恵泉塾に向かわせる大切な時だったと思うのです」
後藤氏は、「余市恵泉塾での生活は、愛と従順を学ぶ5年間だった」と振り返る。
「生活共同体では、『こうあるべきだ』という夢や理想、および元牧師の神学や理念も邪魔であるだけでなく、人の優しさも何の役にも立ちません。ただ、自分には愛がかけらもないことを知ることが唯一の希望となり、その時に神様の愛が分かるのです。変わるべきは、いつも自分であり、『あの人はこう変わらなければいけない』というのは、生活共同体では必要ないことであり、教会でもおそらくそれは同じでしょう」
余市惠泉塾で過ごす中で後藤氏は、これまで属してきた日本福音キリスト教会連合(JECA)から札幌キリスト召団に転籍もしている。恵泉塾は、これまで後藤氏が生きてきた教会とは全く正反対で、水谷氏も人間的には自分と全く正反対の存在。しかし、「異なる者と向き合う中で生まれた考えや葛藤は、慣れ親しんだ関係の中でよりも人を真理に向かわせてくれる」。後藤氏は、恵泉塾で生活する前と後の自分には断層があるという。しかし、そこには霊的な地下水が流れていて、それはつながっていると強調した。
北の大地に骨を埋めるつもりでいた後藤氏だが、思いがけず千葉県四街道市に遣わされて2年目になる。都会に戻って改めて感じたのは、まず、成長の喜びが感じられるはずの生産活動も、すべて消費のために行われており、その中で人間も自分自身を消費するようになり、愛し合うことを忘れてしまっていること。そして、情報が氾濫し、その濁流の中で人間が漂流していること。実際に、所属する共同体を持たずに漂流しているクリスチャンが多いと指摘する。
「キリスト教会における魅力的なイベントも、神学的な書物における議論も、どこか流行の中で消費されているように感じてなりません。福音の種が、人間が根付くべき大地にまかれないで、情報によって作られたプランターの中にまかれ、その中の花も実も、ただ人間の喜びや生きがいのためだけに育てられているように感じます。プランターの土はやがて疲弊して捨てられるものです。大切なのは、プランターの外でクリスチャンという生き方がどう変わったかではないか。それを抜きにして神の国の前進はあるのでしょうか」
キリスト教は本来、理念や観念ではなく、信者の共同体の生き方。ただひとりの神への道である方と共に神に向かっていく道。後藤氏は、すべてのクリスチャンや教会が生ける神に立ち返る必要があると説く。
「『あなたは愛されるために生まれた』ことも大切。でもそれ以上に、『あなたは愛するために罪を赦(ゆる)され、遣わされた』ことを受け止め、その福音に生きることがもっと大切だと思うのです」
最後に後藤氏は、「この時代における神の愛の前進のためには、制度的な地域教会と、惠泉塾のような特定の意図を持った生活共同体の双方が、キリストにあって車の両輪のように働くことが必要ではないでしょうか」と訴えた。「私はその架け橋になれたらと思っているところです。本来のキリストの愛に立ち返り、それぞれが置かれた場所でキリストに仕えていけたらと思うのです」
「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。・・・主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(ローマ13:11〜14)