後藤敏夫著『神の秘められた計画 福音の再考―途上での省察と証言』(いのちのことば社)の出版記念会が7月31日、都賀ブラザビル5階オリーブ山教会(千葉市)で行われた。司会は三浦春壽(はるとし)氏(キリスト教朝顔教会牧師)が務め、吉川直美氏(単立シオンの群教会牧師)、松元保羅(ぽうろ)氏(西荻南イエス・キリストの教会協力牧師)、宮村武夫氏(宇都宮キリスト集会牧師、クリスチャントゥデイ論説主幹)、関野祐二氏(聖契神学校校長)がスピーチをして、約50人が耳を傾けた。
最後にあいさつに立った後藤氏は次のように述べた。「先生方のお話を聞きながら、自分も同じ歌を歌っていました。それぞれ別の道を歩みながらも、そこで何かが共鳴し合っていたのです。私の中で弦が震えていた。それぞれご自分の信仰の生涯の歌を歌ってくださったが、私もそれにほぼ全く重ねて自分の歌を歌います。それは聖霊の交わり。そのことを私自身が心に深く刻むようになったのは惠泉塾に行ってからのことです」
後藤氏は2011年、福音派の代表的な教会の1つである日本福音キリスト教会連合キリスト教朝顔教会(東京都世田谷区)の牧師を辞し、北海道余市の惠泉塾に夫婦で移り住んだ。惠泉塾は1995年、水谷幹夫氏(無教会の札幌キリスト召団)によって始められた、心病む人や生きづらさを感じる人など70人ほどが共に暮らす生活共同体だ。
後藤氏が移住したきっかけは、次男が心を病み、自身もうつ病を発症し、妻の敏子さんがくも膜下出血で倒れたこともあったという。そうして牧会の現場から離れて書き続け、語ってきたことを「広く旅の仲間へ語りかける書物」としてまとめたものが本書だ。
福音派の中で長年、教会生活を送りながら、時代とともに何かが変わり、どこかおかしくなっていることに対して、後藤氏は全存在をかけて自己批判の目を向け、その正体を曖昧にせず、しっかりと自らの言葉でつかまえようとする。その言葉の一つ一つが胸に突き刺さる牧会者やクリスチャンもきっと多いだろう。以下に、本書にある文章と、出版記念会で後藤氏が語った言葉を交互に紹介していく。
「今のこの世の中で地域の教会を任され、労苦している同労者の先生方を私は心から尊敬しています。本当にどう考えたらいいか分からない、しかし避けて通れない現代の複雑な問題が今は山積みじゃないですか。そういう中で教会運営や牧会の第一線に立っておられる先生方のことを思いながら、この本を書きました」
今の時代、私たちは降りることのできないジェットコースターに乗っているかのように、高度消費文明に信仰と生活を絡みとられて生きています。伝道のための魅力的なイベントも、メッセージグルメのような聴衆に美味しさを求められる説教も、神学的な議論や出版物でさえも、どこか流行の中で消費されているように私には思われます。豊かさの中で深く病んだこの時代と社会において、今求められているのは、私たちクリスチャンが悔い改めて生き方や価値観を変えて、生活の中で福音に啓示された神様のみこころを生きることではないでしようか。(7ページ)
(ペンテコステ・カリスマ派)の繁栄の神学と覇権主義は、教会成長論とともに日本のバブルに踊った感があります。学園紛争を契機とした主流派の混乱をよそに、はばたくかのように見えた福音派でしたが、波が引いた後の風景には敬虔が押し流された荒んだものが残りました。(113ページ)
「私がクリスチャンになった頃の教会には、自分が望む恋愛からエンターテインメントから何から何まであった。だから、そこですべての若者の喜びが充足できていたんだけれども、そういうものではない非人間化した社会、人間の全体性が失われ、心理的に切り刻まれるストレスに満ちた競争社会が今ではどんどん進行しています」
(そうした中で)どこかで福音派の講壇のメッセージの内実が変化した・・・のではないでしょうか。(113ページ)
「いつの間にか信仰の理解がとても人間中心的で実利主義的なものになっていきました。いわゆる『自己愛性信仰障害』という、あまり聞きたくはないような傾向が教会の中に生まれてきたと感じざるを得ないのです」
たとえば、中高生のキャンプなどで、「あなたは愛されている」とか「あなたは宝物」、「大切なきみ」といった主題が好んで取り上げられるようになった時期を思い出します。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ四三・四)という今盛んに語られる御言葉を、私は自分の教会生活である時期まで聞いたことがありませんでした(後世の宣教史家は、イザヤ四三・四を、ヨハネ三・一六に続くある時代の福音派の宣教を特色づける聖句としてあげると思います)。(113ページ)
韓国人教会でカリスマ的な霊的体験を高調する人々に私は隣人への愛の眼差しよりも、他者に勝る霊力を求める自己愛を感じました。そこにあるのは「御霊の実」よりも「肉の行い」でした(参照、ガラテヤ5章)。また競争社会を生きて福音派の活動主義に疲れた人々の霊性への渇きや観想的なあり方も、隣人愛という行動に向かわなければ、生活に根を持たない「自分探し」(自己追求)になると思います。(36ページ)
今キリスト教界の中で多くの議論があります。その多くは聖書的な愛を動機とするよりも、人間の正しさと正しさの衝突(自己主張の争い)のように思えてなりません。終末を見つめるなかで、・・・この土の器を通して神の愛を流すことに生きることができれば、いわゆる信仰的背景や信仰告白の表現の違いは、御国の完成への途上にある者として小さなことに私には思えるのです。(22ページ)
このように渾沌(こんとん)とする社会の中で福音派教会の牧師を続けてきた後藤氏は、いつしか袋小路に追い詰められていく。
私は、教会の現実や自分自身の貧しさゆえに、まっすぐに愛を語ることに気恥ずかしいためらいを覚えるようになっていました。・・・教会においてまっすぐに愛を語ることに、自分(たち)の嘘(うそ)くささや皮肉な言い訳がましさを感じるようになっていたように思うのです。そして、それはまた自己保身のためでもありました。(22ページ)
そう本書で告白する後藤氏だが、出版記念会では次のようにきっぱりと言い切った。
「結局、恵泉塾にいて分かったことは、やっぱりキリスト教は、聖書は、福音は、神は、愛だということです。だから、愛を語らなければならないし、愛を生きなければならない。もしもう一度、昔の講壇に立つことができれば、愛について語りたいです。自分が愛せなかったことも含めて。5年間を惠泉塾という信仰共同体の中で過ごして、自分には愛がないということが分かりました。私は比較的優しいと言われる人間ですが、私の優しさなどは愛ではないです。私には愛がありません。それは私という人間の限界です。でも、本当に自分の貧しさが分かったならば、神さまの愛を流すことができると思います。そこに望みを置こうじゃないですか。『君は愛するために、罪を赦(ゆる)されて、もう一度新しく生まれたんだ』ということを、ただ講壇からのメッセージではなくて、私たちが本当に愛し合うことの中で育んでいきたいというのが今の私の思いです」