1914年から18年にかけて起きた第一次世界大戦は、30余カ国の参戦により未曾有の惨禍をもたらした。その大戦が終結したとき、戦後処理のために講和会議がパリで開かれた。
日本はアメリカ、イギリス、フランス、イタリアと並ぶ五大国の一つとして会議に出席することになった。首相の西園寺公望(きんもち)を団長として文相の牧野伸顕(のぶあき)、駐英大使の珍田捨巳(ちんだ・すてみ)、駐仏大使の松井慶四郎、駐伊大使の伊集院彦吉らが派遣され、会議に臨んだ。牧野は出発前にこう抱負を述べた。
「日本は正義公正の旗印を掲げながら、実際はその方針に従わず、外国から不審の目で見られているではないか。私は正義を踏んで弱小国を助けることを主張する」と。しかし、日本政府は「ドイツから得た中国での利益を確保せよ」と彼に厳しく命じた。
1919(大正8)年1月18日。27カ国の代表が参加して講和会議が開かれた。日本からは牧野伸顕、アメリカ大統領トーマス・ウィルソン、フランス首相クレマンソー、イギリス首相ロイド・ジョージ、イタリア首相オランドが出席した。
会議はウィルソン中心に行われた。ウィルソンは世界の平和を維持する機関として「国際連盟」を設立することを提案した。この時、牧野は意見を求められたのでこう答えた。
「自分には最終決定権がありません。ただ政府の意向に従わなければならないのです。国際連盟というこの新しい組織創立については帰って検討させてください」
するとウィルソンは荒々しく言った。「日本は他の国が認めている国際連盟に反対なのか? ドイツが占領していた植民地は国際連盟の管理下に置くべきではないか」
結局、中国における日本の権利は認められず、国際連盟設置案があらためて確認された。そして日本は、これ以後会議でも沈黙せざるを得なくなり、「サイレント・パートナー」という不名誉な称号で呼ばれるようになった。
苦しい立場に追いやられた牧野は、ふと思いついた。それは「国際連盟においては、黄色人種に対する人種偏見のために日本が不利に陥ることのないようにせよ」という政府の訓令だった。そこで牧野は、人種偏見による差別撤廃を規約に入れるよう提案することにして、代表団と共に修正案を作った。
そして、国際連盟規約作りの最終回に「各国はすべて平等という主義にのっとり」という一文を連盟設立の趣旨をうたった前文に載せることを表明し、賛成を得たのだった。さらに、ウィルソン大統領の出した妥協案により、日本の中国における利権も保証されることになった。
日本はそれを受け入れて調印。かくして国際連盟は42カ国の加盟により発足したのだった。国連本部の運営をつかさどるのは総長と次長2名、職員700名だった。
当然日本に対しても国際連盟の事務次長を出すようにとの要請があった。これを受けた日本政府はあれこれ模索したが、これという人材を見つけることができず、難航していた。
そんな時である。まるで神の導きとしか思えないことが起きたのだった。その時にちょうど新渡戸は欧米視察のために後藤新平と共に各国を回っており、この日に講和会場に姿を見せたのである。たちまち彼に目が留まり、日本人代表は彼の名前を挙げた。
「新渡戸さん、この仕事を全うできるのはあなた以外にありません。どうか世界の平和のために、国連で働いてくれませんか?」
新渡戸は、メリー夫人の同意を得てから、この招致を承諾した。かつて彼は「願わくは太平洋の橋となりたい」とその抱負を述べたことがあったが、今それを実現するこのチャンスが与えられたのである。くしくも、国際連盟を提唱し、その立役者となったトーマス・ウィルソンは、新渡戸がジョンズ・ホプキンス大学で共に学び、それ以来親友となった人であった。
彼は少しでも世界平和のために役に立ちたいという願いを持っていたので、新渡戸と巡り会ったことを喜び、また彼の働きに大きな期待を寄せたのであった。
新渡戸はヨーロッパから帰国せずにそのままロンドンに行き、国連事務所の開設の準備に当たった。やがて1920(大正9)年、国際連盟の本部がジュネーブに設立されると、その地に移住することになった。彼はドラモンド事務総長をよく助け、講演も肩代わりすることが多くなった。
その明るく快活で、誰にも親切なその性格もあいまって、日米の多くの人から信頼されるようになった。そして実際に彼は、この仕事において驚異的な実績を残したのである。
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<あとがき>
1919年1月18日。世界に惨禍をもたらした第一次世界大戦の戦後処理のために記念すべき講和会議が開かれました。この時、アメリカの大統領トーマス・ウィルソンにより世界平和を維持する機関として「国際連盟」の設立が提案されました。
代表として出席した文相の牧野伸顕は、個人的には加盟を望んだものの、日本政府から「中国における日本の利益を確保せよ」との厳しい命令を受け、発言することができませんでした。しかし、ウィルソンの助けにより「人種差別の撤廃」を規約に載せることで中国での利益も守られ、調印することができました。
そして「国際連盟」は42カ国の加盟により発足したのです。その後、国連事務次長を日本からも出してほしいという要請を受け、日本政府は思案していました。
この時、不思議な神の摂理で欧州視察のため各国を回っていた新渡戸が、この講話会場に足を向けたのです。そして日本代表から強く懇願され、彼はこの重い任務を引き受けることになりました。
「太平洋の橋となりたい」という彼の大志は、ここに実現したのです。ウィルソンがかつてジョンズ・ホプキンス大学で共に学んだ親友であったことも、神の導きといえましょう。
(※これは史実に基づき、多少のフィクションが加えられた伝記小説です。)
(記事一覧ページの画像:新渡戸記念館提供)
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。