こうして国際連盟の次長に選ばれた新渡戸は、すぐにその優れた手腕を発揮した。まず、難しいといわれていたオーランド諸島をめぐる問題を解決したことである。フィンランドは1919年にロシアの支配から脱して共和国となったが、同時にオーランド諸島(6500の小島)の領有権を主張していた。しかし、スウェーデンとの協議が難航しており、発足間もない国連に調停が委ねられていた。
新渡戸は調停役を委託され、ある妥協案を出して解決した。それは、オーランドはフィンランド領とするが、自治領として自治権を認め、公用語はスウェーデン語とする—としたことで、理事会で決定されたのだった。この難しい問題を見事に解決したことから、新渡戸の名声は世界に広まった。
2つ目は「知的協力委員会」というものを作ったことだった。これはノーベル賞受賞者や世界的名声を誇る人物と連絡を取り、交流を持つことで、真理の探究を通して人類の永久的平和を確立しようとする試みである。その中にはアインシュタイン、キュリー夫人、アンリー・ベルグソン、そして日本からもローマ字学会を作った田中館愛橘(あいきつ)が選ばれた。
彼らは一同に会して、その研さんを披露し合った。これは、学問が孤立したものではなく、広く人類の福祉に貢献すべきことを世界に知らしめた。この「知的協力委員会」は、後に国連の機関「ユネスコ」となって存在したのであった。
3番目は、子どもの権利に対するジュネーブ宣言を引き出したことである。「人類は子どもに対して最高のものを与える義務があることを認識し、人権、国籍、信条を問わず次のことを義務とする」という序文があり、5カ条の義務を提言している。
1)子どもは正常な発達のために物心両面にわたる必要な手段を与えられねばならない。2)子どもの飢え、病気、心身の発達の遅れ、過ちにはそれに対する適切な対策がなされねばならず、孤児、浮浪児には住居などの援助が与えられねばならない。3)子どもは緊急時には、真っ先に救助されねばならない。4)子どもは自立して生活できるよう導きを受け、あらゆる搾取から保護されねばならない。5)子どもはその才能が広く人類同胞のためにささげられねばならない。
新渡戸はまた、太平洋問題調査会(IPR)にも深く関わり、この会議の日本理事長の仕事が生涯最後の仕事となった。IPRは、ハワイYMCAの活動を発端とする民間団体の会議だった。1919(大正8)年、アメリカYMCA事務局はハワイYMCAに対し、太平洋地域のYMCAの指導者を招集して宗教的目的の汎太平洋YMCA会議をハワイで行うよう指示した。
それから間もなく「汎太平洋YMCA会議準備委員会」が持たれ、協議の結果、次のような形式、内容で会議を行うことが決定された。「参加者は世論に影響力のある有識者であること。同一問題を参加者全員が円卓会議方式で討議すること。会議は論争的ではなく教育的であること。常設機関設立を模索すること。議題は各国共通のものであること。そして会議の名称は『太平洋問題調査会(IPR)』とすること」などである。
1925(大正14)年7月にIPRハワイ会議が開かれた。アメリカ、カナダ、中国、朝鮮、日本、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイに招待状が送られる。そして、第1回ハワイ会議が成功に終わったことから、会議の恒久化を検討する臨時委員会が開かれた。その後、会議は1958年第13回まで続けられた。
1929(昭和4)年10月28日から2週間、第3回会議が京都で開かれた。この時、新渡戸が議長を務めた。しかし、この会議は始めから困難な問題を抱えていた。会議の主要議題が「日本の満州侵出」で、これは当時中国から非難を浴びていたからである。
前年の1928(昭和3)年、日本の関東軍の陰謀で中国の軍人で政治家だった張作霖(ちょう・さくりん)が爆殺されるという事件が起きた。果たしてこの会議の場で、中国はこの事件に言及し、日本との対決姿勢を明らかにした。この時、議長である新渡戸は中国の代表団に対し、謙虚な姿勢でこう述べた。
「もしそれが事実であるならば、今ここでイエス・キリストの十字架の愛にかけてお許しを願わねばなりません。日本軍が犯した罪をどうか許してください」
すると、とげとげしかった会場の雰囲気がたちまち一変し、欧米の代表団の間に友好的な空気が流れた。米国の排日家として有名なシャレンベルグまでがこの日以来親日家となった。
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<あとがき>
国連の事務次長となった新渡戸は、幾つかの難しい問題を優れた手腕をもって解決していきました。まず彼はオーランド諸島をめぐる紛争を解決し、フィンランドとスウェーデン、そしてロシア間の調停を図ることで世界的にその名声が広まりました。
次に「知的協力委員会」(後のユネスコ)を作り、人類の平和のために世界的名声を誇る各分野の人々の交流を図り、世界各国の友好親善に努めました。さらに、子どもの人権を守るために「ジュネーブ宣言」を発令し、太平洋問題調査会(IPR)とも関わり、この会議を永続させることにより、太平洋岸の国々の平和を維持したのです。
このような時に、軍事国家となっていた日本の関東軍による中国の政治家、張作霖の爆殺事件が起こり、国際的非難を浴びました。新渡戸は、会議において一言も弁明せず、実に謙虚な態度で「キリストの贖罪愛にかけてお許しください」と述べたのです。すると、会議の空気は一変し、各国の代表者の間に友好的な関係が結ばれたのでした。
(※これは史実に基づき、多少のフィクションが加えられた伝記小説です。)
(記事一覧ページの画像:新渡戸記念館提供)
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。