本書『ヒップホップ・レザレクション ラップ・ミュージックとキリスト教』が与えた【衝撃】は、次の箇所に要約できる。
1960年代半ばに公民権法や差別是正措置の制定によって公民権運動が成功を収めたかに見えた一方で、都市部において大きな問題となっていた貧困は解決されないままであった。また、キング牧師暗殺によって公民権運動はリーダーを失い、1970年代から80年代にかけてアフリカ系アメリカ人は世代間や社会階層間の断絶を迎えていた。(10ページ)
私たちは、一般的に「公民権運動」が成功したと見ている。確かにマーティン・ルーサー・キング牧師はメンフィスのモーテルで暗殺されたし、その後「ブラックパワー」という掛け声と共に「ブラックパンサー党」が結成されたことは知っている。だが、多くの場合、それらは単発的な「はねっ返り」であり、大勢に影響を与えないものとみなされてきた。
事実、ハリウッドなどで量産された「人種差別批判映画」は公民権運動を称揚し、ローザ・パークスやキング牧師たち公民権運動家を、「不屈のヒーロー」として描くことで一定のヒロイズムを担保し、それを(今から思えば)神話化し、伝説化していった。
だが、本書第1章で著者の山下壮起氏が着目したのは、公民権運動の恩恵を受けて中産階級化した人々と、その恩恵を受けられず、いまだに貧困の中であえぐ低所得者層との乖離(かいり)であった。しかもこれが教会内においても見受けられたことで、黒人社会のかすがいであったはずのキリスト教会が、その機能を果たし得なくなっている現象にも言及している。
「公民権運動は成功した」という定説は、「黒人=聖」というイメージを生み出し、高い道徳性によって人種間の争いは乗り越えられた、と思わせてしまったのである。もちろん時々例外的に差別的な発言は発せられるが、それは個人の未熟さ故のことであって、歴史的・社会的には、公民権運動によって人種問題は解決へ導かれた、と人々に思わせてしまったのである。
その一方で、その恩恵に浴せなかった人々とその子孫たちがなお貧困にあえいでいる。しかし、公民権運動の輝きがまぶし過ぎるが故に、忘れられたマイノリティーの存在を見えなくさせ、彼らに差し伸べるべき多くの手を控えさせてしまっているのである。
この指摘は、私に大きな衝撃を与えた。なぜなら、山下氏が本書を出版する7年前、私は『アメリカ福音派の歴史』という本を明石書店から世に出している。その論調は、まさに黒人の「聖性」を高く掲げ、それに無理解な姿勢を取っていた福音派陣営のありようを歴史的に紐解(ひもと)いていたからである。拙著の執筆に取り組んでいた2010年当時、私はキリスト教保守とリベラルという2つの軸を基にして公民権運動を考察していた。その区分けでいい、と本書に出会うまでは考えていた。しかし山下氏は、これにもう一つの軸が存在することを示し、軽々と私の到達点を飛び越えていったのである。
拙著出版から間もなく10年がたとうとしている。しかし本書の出版により、わずか7年で、私の立脚点は「時代遅れ」と化してしまったのである。素直に「参りました」と言わざるを得ない。
山下氏は、奴隷時代に黒人たちが歌わずにはおれなかった霊歌、その世俗版であるブルース、これらが内包する宗教的機能を包括する存在として、ヒップホップを描き出している。
ブルースからヒップホップへとつながる救済的機能を「世俗的霊歌」と表現し、聖のみに偏った黒人教会、ひいては既視感あふれたキリスト教を、あえて「俗」の中へ再び立ち返らせ、かつて奴隷時代(聖俗が一体であった時代)に彼らが叫び歌った「霊歌」の機能を、ヒップホップは再びよみがえらせることができる、と語っている。
ヒップホップには宗教的概念が多用されていることがわかる。宗教的概念のなかでも、特に天国での解放やそこに託される自由への希望という点において、ヒップホップはまさに、霊歌と同様の救済的機能を果たしているといえるだろう。同時に、ブルースのように、ヒップホップではヒップホップ世代の直面する厳しい現実に見られる、悪とみなされる事柄についても歌われている。つまり、反社会的な事柄を徹底的に描き出すことで、不条理な世界で生きることの意味を問いかけ、それを見出そうとする点で、ブルースの世俗的霊歌としての機能も果たしている。この点においても、ヒップホップには聖と俗が混在していることが明らかである。(140ページ)
このように、聖俗が一体となった現実を「語り出す」ことで、今ある閉塞感を抜け出すというやり方は、米国特有のものではない。状況や立場は異なるが、同じような働き掛けによって閉塞感を乗り越えた事例が日本にもある。時代的にはヒップホップ誕生の20年ほど前になるが、中学校教諭の無着成恭(むちゃく・せいきょう)が1951年に出版した『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』がそれである。貧困と過疎に悩む東北の山形で教員をしていた無着は、生徒たちに自分たちを取り巻く「現実」を自身の言葉で赤裸々に作文として書かせた。生徒たちは、それによって自らを見つめ、その現実の中で生きることを決意する。子どもたちの心からの言葉がしたためられた文章の数々は、多くの人々の心を打ったといわれている。
無着が実践したこの「生活綴方(つづりかた)」こそ、劣悪な貧困状態で生きざるを得ないアフリカ系米国人たちが奏でるラップと呼応するのではないだろうか。共に閉塞感の中にある者が、その閉塞感に向かい合い、対峙することで、生きる力を蓄えるということだろう。無着が後に住職となり、仏教に帰依したことを考えるなら、「生活綴方」も「ヒップホップ」も共に宗教的な裏打ちがある所作だといえるのではないだろうか。(続く)
■ 山下壮起著『ヒップホップ・レザレクション ラップ・ミュージックとキリスト教』(新教出版社、2019年7月)
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