米国を「アメリカ」たらしめているものとは? 2人の社会学者が「キリスト教」と「日本人論」を熱く語り合う、コンテンツ満載の1冊!
新書は玉石混交である。だが本屋の店頭には、必ず平積みにされている。そして、数千円する本に決して引けを取らないものが数多くある。2011年に発刊された『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)もそのようなベストセラーの1冊である。この本が出た後、さまざまな関連本(『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』〔ジャーラム新書 / 慧文社〕、『「ふしぎなキリスト教」と対話する』〔春秋社〕など)が発刊された。各界に大きな影響を与えたことが分かる。
2018年末に、同じ著者2人(橋爪大三郎氏、大澤真幸氏)による対話形式の新書が発刊された。タイトルは「アメリカ」。何とシンプルであろうか。河出書房新社が60年ぶりに復活させた教養新書レーベル「河出新書」から出版されたという意味でも意義深い1冊となっている。
300ページを超える本書は、本の帯にコンテンツの面白さが披露されている。
「アメリカの何たるかがほんとうに、わかる!」
「アメリカを知ることは、日本を知ること」
このようなコンセプトの下、大きく3つに分けて『ふしぎなキリスト教』コンビの社会学者2人が語り合う、という形式を取っている。第1部は「アメリカとはそもそもどんな国か」、第2部が「アメリカ的とはどういうことか」、第3部が「私たちにとってアメリカとは何か」である。
本書を手にする人の多くは、米国について知りたい人であろう。例えば、トランプ政権のさまざまな「事件」が、毎日のように太平洋のこちら側にいる日本にも届けられる。時としてこれらの出来事は、私たちにとって「理解不能」である。だから「どうしてこんなことが?」「なぜ米国民は黙っているのか?」という率直な疑問が生まれてくる。
本書はそのような疑問に直接答えることはしていない。しかし私たち日本人の目から見て「特異なこと」と思える事柄の中身、すなわち出来事が生み出されるメカニズムや、それらに向き合う米国人の心情、世界観を形成するもの(思想、哲学、宗教)について、社会学者としての観点から分かりやすく解説している。そして、「米国を知るということは、とりもなおさず、米国と向き合っている私たち日本人を知ることである」という反転を見事に展開している。第3部の後半は、もはや「アメリカ」というタイトルを離れ、「日本人論」が主な内容となっている。ここが本書の肝であり、また「私たちの鏡として米国を見るべきだ」というメッセージである。
そのような「鏡としての役割」を持つ本書は、その根底に「キリスト教」への深い理解があるように思われる。そして、一見難しく、奇異に感じられるキリスト教的用語や出来事を、一般の人々に分かりやすく「解説する」ということに心を砕いている。つまり「アメリカ」の根幹を成す「キリスト教」の成分を分析・解説していると言えよう。そういった意味で、本書は米国的キリスト教の入門書としても最適な1冊ということになる。
例を挙げるなら、第1部5章の「大覚醒運動とは何だったのか」では、いわゆる「リバイバル現象」の中核となる「覚醒」の本質について、下記のような解説が加えられている。
認識の図式自体は、信仰のあるなしで、変わりません。因果関係の部分は因果関係でできている。さてその、偶然の部分。信仰をもつと、偶然が、必然になるんですね。なぜかと言うと、それは神の意思である。(中略)こういうことになると、認識している内容は一ミリも変化がないのに、何かが根本的に違っていて、全部が神の意思になる。偶然が全部、必然になるんです。(中略)覚醒の本質とは、そういうちょっとした認識の相転移だと思います。(橋爪氏、67ページ)
ペンテコステ諸派に属する期間が長い私にとって、「リバイバル現象」はある意味、キャンパスの下色のようなものであった。だからそれをこういった形で「成分解説」してもらうと、新鮮な驚きと感動がある。同時に、まったくキリスト教的素養がない人と話をするときに、本書の解説はとても役に立つ。なぜなら「通じる用語」がここに散りばめられているからである。
そんな中でも、特に感銘したのは第2部のプラグマティズムの歴史と解説である。ご存じのように、プラグマティズムは米国で花開いた哲学である。パース、ジェイムズ、デューイという人物名を聞いたことがある人もおられよう。
彼らが「アメリカ」で追究し、「アメリカ」で開花させたこの考え方は、米国の世界観を大きく進展させたと同時に、その土壌で育まれた「米国式キリスト教」を発展させたと言っていい。両氏は「プラグマティズム」と「キリスト教(宗教)」、そして「アメリカ」の関係を次のように述べている。
この対談のはじめの方で、アメリカというのは、宗教的な敬虔と極端に世俗的な冒瀆(ぼうとく)とがショートカットでつながっているように見える、ということが不思議だ、という問題提起をしたわけですが、このパースとジェイムズとの繋(つな)がりに、この疑問を解くひとつの鍵があるようにも思えたからです。(大澤氏、201ページ)
プラグマティズムは、宗教のことを考えている。さまざまなキリスト教の宗派(教会)と自然科学とを考え、これが調和し共存する、アメリカという空間をどう設計すればよいかと考えているのです。それは、宗教であって宗教でなく、哲学であって哲学でなく、科学であって科学でない。ひとつのアメリカ的生き方の提案なんです。(橋爪氏、209ページ)
「神学」とは、端的に言うなら「自分の信じている神、その世界観を共通言語で他者へ伝える体系」であろう。その際、同じ分野に精通している者同士であれば専門用語で事足りる。しかし共通言語としての「神学」が成立し得ない相手である場合(その機会の方が圧倒的に多い)、やはりそれをかみ砕く必要がある。それは言い換えるなら、用語の成分を解説することであろう。確かに成分解説では相手を信じさせることはできない。共感してもらえる可能性も低い。しかし、相手との対話はそれにおいて確実に次の段階へ進む。
本書がさまざまな分野において「鏡としての役割」を果たすことは述べた。それは米国という一国家のみならず、その国家に根付いた「キリスト教」、さらにその恩恵と偏見を最もストレートに受けた「戦後日本人」のアイデンティティーにとっても、同じ機能を果たすことになるだろう。第3部の後半が「日本人論」になっているのは、まさにこここそ、私たち日本人のリアリティーに触れる部分だからである。
神学書の一形態として、社会学者の対談として、そしてある種の日本人論考として、本書は多くの示唆を私たちに与えることであろう。分量は多いが、一気読みしたくなる熱量を持った1冊であることは間違いない。
■ 橋爪大三郎、大澤真幸著『アメリカ』(河出新書 / 河出書房新社、2018年11月)
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