よく牧師仲間から尋ねられることに、「青木先生はクリスチャントゥディ専属の書き手なんですか?」というものがある。これはまったくの誤解である。よほど反社会的で偏った思想を威圧的に押し付ける団体でなければ、一応どんなところからでも執筆依頼があれば受けるようにしている。もちろん私の状況が許す限り、という条件はあるが・・・。
今から2年と少し前、キリスト新聞の松谷信司編集長から「映画評論家の服部弘一郎さんと映画対談をしてみませんか?」と打診があった。これはとてもうれしいお誘いであったので、即断即決で「お受けします!」と回答したことを覚えている。しかしその時は、一体どんな企画なのか、また「映画評論家の服部弘一郎さん」が一体誰なのか、まったく分からない状況だった。でも「映画対談」という一つのフレーズに引かれ、反射的に了承してしまったのである。
それから、服部氏がキリスト新聞に寄稿してこられた映画評を読ませていただき、対談への思いがさらに高まった。なぜなら、まず彼が「私はクリスチャンではない」と公言しつつも、かなりキリスト教への造詣が深いことが読み取れたからである。そして、単に「キリスト教万歳!」という視点だけでなく、やはり歴史的なダークサイドにも焦点を当て、「人の営みとしてのキリスト教」をバランスよく描き出すことを心掛けているように思えたからであった。
ご存じのように、私も映画を評することが楽しいと思える人間である。だから、クリスチャントゥディでも多くの映画を取り上げてきた。中には「こんな映画、キリスト教と何の関係が?」というお叱りの声を頂くこともある。しかし「キリスト教の良さ」を一方的に伝える(押し付ける)ために映画を観て評しているわけではない。聖書の教え、キリスト教の卓越性、これらを感じている人間だからこそ、「歴史として見たキリスト教」における人の営みの愚かさ、情けなさ、どうしようもなさに目が向いてしまうのである。時にはそんな罪深い様に共感すら覚えてしまうことがある。
本書『銀幕(スクリーン)の中のキリスト教』を読むと、クリスチャン家庭で生まれ育ち、それでいて「クリスチャンではない」と公言している服部氏の視点・観点が、恐ろしく私と似ていることを実感する。両者に共通しているのは、「映画とキリスト教」を分けて考えるのではなく、実はとても近しいものと捉える視点である。多くの西洋人が内包している「キリスト教文化の無意識の発露」を、意識的に浮かび上がらせたいということである。言い換えるなら、「この世界」とキリスト教の「聖なる世界」を地続きに捉えることで、「新たな地平」を開拓したいという願望である。
その大胆な試みは、キリスト教映画として一般的に挙げられる「ベン・ハー」や「十戒」などの「聖書映画」のみならず、(服部氏の章立てでは)「第2章 イエスのいないキリスト列伝」や「第4章 神なき時代のキリスト教映画」にまで評論の範囲を拡大していることで結実している。
例えば一般的に、以下のような作品のどこに「キリスト教」が絡んでいると受け止められるだろうか。
「ターミネーター2」「ゾンビ」「キャリー」「トゥモロー・ワールド」「ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団」「愛のむきだし」
どの作品も、映画ファンなら必須、そこまでの映画ファンでなくとも一度は名前を聞いたことのある作品であろう。一度だまされたと思って本書を手にし、これらの作品の映画評をご覧いただきたい。そこでは、キリスト教的な知識や素養をほとんど持ち合わせていない人でも分かるように作品が解説されている。同時に、意外なところにキリスト教が透けて見えるであろう。
服部氏が本書でまとめたような映画評こそ、実は私の理想形であるともいえる。特にこれは、ハリウッド型映画(人々の興味を引く題材を、最新の技術で映像化し、最後に正義が勝利する物語)を見慣れた私たち日本人にこそ響くやり方である。残念ながら、本家米国の人々にとっては、服部氏が本書で指摘しているようなことは当たり前すぎて評論ポイントとして抽出することすら難しいだろう。そういった意味で本書は、日本人が映画に、そしてキリスト教に向き合うのに最適なテキストと言ってもいいだろう。
本書の最後には、先に述べた服部氏と筆者の対談が収録されている。この企画は、キリスト新聞の松谷編集長から頂いた話であることは冒頭でも述べた。しかし編集は、かなりの時間を費やし、相当のご苦労があったと思う。なぜなら、実際の対談は朝10時くらいから始まり、夕方4時過ぎまで行われたからである。作品もトピックも多岐にわたり、それを文字化するだけで一冊の本ができるくらいであった。それを見事にまとめてくださった松谷編集長には心から御礼申し上げたい。
服部氏が時々発する「たとえ」は、とてもインパクトがあり、人々に作品や映画ジャンルの本質を分かりやすく伝えるのに最適であった。対談の中でも「スター・ウォーズは旧新約聖書だ」とか「アメコミ映画は福音書だ」という名言(?)を次々と生み出しておられた。
また第1章では、120年にわたる映画史が簡潔にまとめられているが、その結論部(16ページ)で、「聖書は忠臣蔵だ!」と喝破している。この潔いほどに簡潔で分かりやすい表現は、私も今後学ばなければならないと思わされた。
本書は、「キリスト教に興味を持っているけれど、教会に行くほど強く傾倒しているわけではない」という人、「ありきたりの聖書研究や教会生活に何だかマンネリ感を抱いてしまう」というクリスチャン、そして大の映画好きの人にとって、必ずや「福音=良き知らせ」となる一冊である。
■ 服部弘一郎著『銀幕(スクリーン)の中のキリスト教』(キリスト新聞社、2019年7月)
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