日本キリスト教協議会(NCC)は14日から16日までの3日間、創立70周年を覚えての宣教会議を東京の在日本韓国YMCAと日本キリスト教会館で行い、会議の成果をまとめた宣言文「NCC宣教宣言2019」(16日付)を発表した。
宣言文は、前回の宣教会議が開かれた2005年以降、東京電力福島第1原発事故をはじめとする新たな社会問題が山積し、教会の中でも高齢化や担い手不足といった現実的課題を抱える中、「このような時代であるからこそ、今一度、日本におけるエキュメニカル運動の歩むべき道筋を共に確認するために、私たちはこの『宣教会議』を開催しました」と説明。「キリストに呼び集められた者たちが、初代教会より大切にしてきた<み言葉><奉仕><証し><祈り・礼拝><交わり>という包括的宣教を大切にしながら、今の時代を生きる私たちに、何が求められ、どのような交わりを創り出していこうとしているのか、そのために私たちがどのように手をつなぎ、歩んでいけるのかを、熱心に語り合った宣教会議となりました」と報告した。
宣言文はまず、「今回の宣教会議において、私たちは、使徒言行録1章8節に示された『地の果て』こそが、全世界(オイクメネー)に向かって目指すべき宣教の現場であることを確認しました」とし、「『オイクメネー』とは、いと小さき存在が虐げられ、また声を失い忘れられやすい不条理の世界であると同時に、『神の宣教』が聖霊によって、力強く、人々の叫びから開始される場でもあります」と説明。「私たちが今回学んだことは、教会は『地の果て』のただなかにあり、『教会の宣教』と『宣教の現場』はダイナミックにつながり、不可分の関係にあるということでした」と記した。
そして、「神がアモスに『見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ』(アモス8:11)と語り掛けたように、今、私たちの教会が直面する危機とは、『宣教の危機』であり、教勢の低迷や財政難よりも『主の御言葉』によって示された目指すべきところを見失ってしまっていることにあると気付かされたのです」と続けた。
その上で、「私たちの『宣教・伝道』(mission and evangelism)の原点は、神の『み言葉』(ケリュグマ)に聴き、伝えることにあります」と指摘。「今回の宣教会議では、人々の痛みの現場に出かけて行き、その『場』でみ言葉に聴き、そこで聴こえてくる聖書の響きを共有することの大切さが語られました。さまざまな困難な状況にある現場の課題を神学化し、日々の教会生活に根差しつつ実践することが、私たちのエキュメニカル運動の大きな課題であることも、あらためて確認されました」とした。
宣言文は次に、「私たちは、この世界、社会の必要に応え仕えるよう、神から派遣されています。この『奉仕』(ディアコニア)の働きが、私たちの宣教の根幹であることは言うまでもありません」と強調。「激しい弱肉強食社会の中で、孤立させられている青年たちの心のうめき。障がいを理由に生きることを否定されたいのちの叫び。生産性を物差しとして人間としての尊厳を奪われた人々の叫び」など、「人間としての当然の尊厳や自由を奪われ、苦しみの叫びをあげている多くの人々」の例を挙げ、「これらの叫びを前にして、私たちは沈黙することは許されません。私たち日本のキリスト教会、キリスト者は、彼 / 彼女らの『隣人』となり得ているかが、常に問われているのです」とした。
さらに、「今回の宣教会議の中で私たちは、多くの、日々の生活における福音の具体的な『証し』(マルトゥリア)に耳を傾けました」とし、「政教分離」原則と「信教の自由」を守るキリスト者の取り組みを「戦前の国家神道への屈服に対する反省の『証し』」として取り上げた。
靖国神社国営化法案に反対し、日本国憲法の政教分離原則に立つ信教の自由を守る取り組みを担ってきたNCCの働きが、1970年代以降の韓国NCCをはじめとする韓国キリスト者の民主化闘争への積極的な連帯、さらには80年代に朝鮮半島の平和統一による北東アジアの平和を目指した「東山荘会議」への動きにつながったことに言及。「再び子どもたちを戦争協力への道に導くことがないように、正しい歴史認識を持ち、国家主義教育を克服し、アジアの一員として生きる自覚へと導く教育を持つことが求められているのです。さらに私たちは、神の創造のわざに従い、和解の務めも負っていることを覚えます。私たちは、正義・平和・いのちの『証し』をしていくことを確認しました」と記した。
そして、「諸教会は、教理や信条において未だ大きな違いと隔たりを抱えていますが、私たちは、その現実を超えて、いと小さき存在の叫びに連帯する中で、共に祈り、礼拝をささげ、連帯の輪を広げています。今回の宣教会議においても、私たちのエキュメニカル運動において、『共に祈り・礼拝すること』(レイトゥルギア)は、その本質的要素であることを確認しました」とした。「私たち日本の教会が『礼拝』を考える時、決して忘れてならないことはかつて誰を礼拝するかを曖昧にし、天皇制国家への親和性を示すために宮城遥拝を行い、それによってアジアへの侵略に加担した歴史です」と指摘。「今回の宣教会議では、私たちは、異なる神学、異なる立場との対話を、いつ、なぜ止めて切り捨ててしまうのかが問われました。誰が礼拝にいないのか、誰が礼拝の場で抑圧され、傷つけられているのか、私たちの礼拝は問われています」とした。
最後に宣言文は、「私たちの宣教・伝道とは、聖霊の助けと導きを信じ、『み言葉』(ケリュグマ)、『奉仕』(ディアコニア)、『証し』(マルトゥリア)、『礼拝』(レイトゥルギア)において、見失ってはならないオイクメネーの『地の果て』からの<いのちの叫び>に丁寧に聴き、そこで私たちを待っておられるイエス・キリストを目指し、そこに遣わされることにあります」とまとめ、「私たちは、この時代、何よりもこの宣教・伝道の使命を再確認し、またそれをさらに深めていくこと、聖霊に導かれ、一つひとつを超えて互いにつながれて、『神の宣教』のために働く『主にある交わり、共同体』(コイノニア)となることを、ここに宣言します」と記した。
さらに、「日本におけるキリスト者はその人口の1パーセント以下ですが、聖霊に押し出され、自己保存的な志向から解放されて、常に開かれた共同体、より包括的な共同体でありたいと願います」とし、「今回の宣教会議でも、少数者であるからこそ、日本にはエキュメニカル運動が必要であることが確認されました。開かれた共同体として、カトリック教会、日本福音同盟をはじめとする諸教会、諸宗教、諸団体との広がりある連帯を願います。限界ある不完全な私たちであることを自覚するからこそ、私たちは『塩で味つけられた言葉』をもって、他者との連帯と共働を喜ぶのです」と記した。