かつて20年ほど前大ヒットした映画「踊る大捜査線」(1998年)において、織田裕二扮する青島刑事が、「事件は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起きてるんだ!!」と叫び、当時の名セリフとなった。
意思決定機関である上層の管理部門に対し、現場から不満を爆発させるこのシーンは、どの分野の働きにおいても起こり得ることなので、時代を超えて共感されてきたに違いない。
現場の担当者は悩んでいるが・・・
私がかつてエンジニアとして研究開発現場の担当者であった頃、日ごと得られる実験データから重要なデータを抜き出し、疑問点を記したメモを添付して書棚に残していた。今ならデジタルデータで保管するだろうが、当時の私の書棚は紙のデータとメモで山積みになっていた。
一方で、頻繁に訪れる管理職への報告は、疑問なことには蓋をして、理解できる内容だけを理路整然と行っていた。管理職である上司が短時間にスムーズな意思決定をするためには、筋の通った報告が求められていたからだ。
上司は、部下の疑問や悩みを聞く立場にあるが、十分な時間が割けない上に日頃から現場に触れていないため、説明されても分からないことが多い。担当者にとっても、上司から現場にそぐわない指示をもらうと困るので、黙っていることが多くなる。現場と管理職の意識がずれてくるのは避けられない。
現場を離れると現場の悩みは分かりにくい
ある時、そんな私自身が管理職になることを指示された。現場の仕事に追われてきたが、突然、部下の業務を管理する立場になったのである。
当然、それまでのように、現場に出向くことは少なくなり、報告を受ける役割が増えた。私の頭の中は、報告によって得られる情報が理路整然と整理されていった。管理職には、管理職の疑問や悩みがあるが、現場の悩みとは異なっていた。
1年ほどが経過したある時、職場が新しい建屋に移ることになり、保管書類を整理することになった。私は、良い機会なので、かつて日ごとに悩み続けたデータとメモを書棚から取り出し、重要な知見を掘り起こそうと考えた。
ところが、驚いたことに、取り出したデータとメモの意味がほとんど理解できないのである。かつて現場でデータと格闘し、重要な疑問点を書き残していたはずだった。しかし、忙しく管理業務を熟すうちに、私の心は既に現場から遠く離れていた。私は大量の書類をやむなく廃棄した。
現場に出掛けることをおろそかにしたくない
現場からの報告を受け、意思決定の指示を出す管理部門の役割は重要である。しかし、現場を理解しない管理職は間違った判断に陥りやすく、現場との間にトラブルを生む。それを避けるための特効薬はなく、管理職であっても時間を割いて現場に出掛け、現場で悩む以外に得策はない。
現在、私のもとには、全国から多くの必要が届けられる。宣教目的のサービス業として、寄り添わせていただける窓口を全国に開いてきたからである。大半が遠方からなので、地域教会の熱心な同労者に託すことが多い。
当然、寄り添う現場からの情報を入手し、スムーズな働きが展開されるように管理業務の質を向上させる必要がある。私の仕事は、情報管理室の管理業務であるには違いない。
しかし、神様は、私自身が現場に寄り添う必要とチャンスを常に与えてくださる。信頼できる人に委ねることも大切だが、導きに沿って自ら現場に出掛けることもおろそかにしたくない。冒頭の名セリフのように、弱さを抱える人々からの必要(事件)は、オフィスの中で起こっているのではなく、現場で起きているのだ。
ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』(ルカの福音書10章30~35節)
上記の聖書のたとえ話は、当時、ユダヤ人とは犬猿の仲にあったサマリヤ人が、強盗に襲われ、傷ついた人の隣人として寄り添う話である。誰もが、犠牲を払って助けたサマリヤ人のような行いを称賛するだろう。自らもそのような生き方をしたいと願うものだ。
しかし、当時、エルサレムからエリコに向かう道は、強盗に襲われる危険が満ちていた。誰もが自分を守ることで精いっぱいの中で、このようなサマリヤ人はまず存在しなかっただろう。むしろ、傷ついた人を無視した祭司やレビ人の方が、的確な状況判断をする常識人かもしれない。
このサマリヤ人の行いは本来、神様が人に期待しておられるものだが、同時に、天の位を捨て、人の子となり、人の弱さを背負われたイエス・キリストだけが成し得ることでもある。
人の弱さに寄り添うとは、この傷ついた人を助けるようなもので、私たちの力の及ばないことがほとんどである。自らの力に頼っていては、隣人になるなど到底叶わないのだろう。私たちは、神様に寄り頼んで現場に出掛けたいものだ。
たとえ私たちには困難なことでも、イエス・キリスト自身が重荷を背負ってくださるに違いない。彼は永遠の愛そのものであり、自ら弱さをまとって真の隣人になってくださる私たちの救い主なのだから。
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