現代社会に生きる私たちは、膨大な情報に晒されている。日常生活を送るだけで、さまざまな情報が意図せず入ってくる。私たちは、情報の扱いに細心の注意を払いたいものだ。特に、安易に得られるインパクトのある力強い言葉には気を付けたい。
インパクトのある力強い言葉
かつて前職時代、モーターショーのメインブースにおける技術展示を担当したことがあった。分かりづらい将来技術を説明するため、複数の大型モニター、展示物、さらに技術説明のため、プロのアナウンサーを配置した。当時話題の環境問題を扱う展示だったため、大変な力の入れようだった。
展示内容は課題を抱える将来技術だったが、注目されるメインブースで自信のないプレゼンをするわけにはいかない。否定的な言葉を抑え、事実をできるだけ正確に伝えるつもりだったが、出来上がった展示内容は、世界をけん引するのにふさわしい画期的な技術展示のように仕上がっていた。
さらに驚いたのは、モーターショーが始まって、大勢の人の前で話すアナウンサーの言葉を聞いたときだった。話している内容は、私が作った原稿のはずだったが、その自信に満ちた話しぶりから、強烈なインパクトを人々に与えることになった。
実は、そのアナウンサーと私は一度も打ち合わせをしていなかった。私の書いた原稿が人を介して届けられただけだった。もちろん、彼は技術に関しては素人であり、おそらく関心もなかったことだろう。にもかかわらず、彼の言葉を聞いた大勢の人々は、プレゼンの内容に感動し、称賛の言葉を語っていた。
技術を担っていた私としては、日々取り組んでいる課題の大きさも正直に伝えたいところだったが、本音を語る場でないことは明らかだった。
ちなみに、この技術はこの後、課題を克服することができず、社内での評価は急落し、私は役職を解任された。しかし、私たちに追従した欧州メーカーは多くの車両に採用し、その取り扱いの難しさから不正制御ソフトの問題にまで発展してしまった。
残念ながら、私は同じ分野で日々労苦する多くのエンジニアたちに寄り添うことができなかった。特に、社外に対しては、立場上難しかったとはいえ、正しく情報を伝えられなかったことに責任を感じている。
弱さの中からの言葉が人を生かす
一方で、聖書に記されたイエス・キリストの言葉は、華々しい力強さを伴っているわけではない。むしろ、さげすまれ、あざけられ、弱さを背負う中で語られた言葉が多い。しかしながら、彼の的を射た言葉は、時代を超えて人々に生きる力を与えてきた。
イエスが十字架に架けられた際、語られた言葉が聖書に記録されている。その中で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイの福音書27章46節)と叫ぶ場面がある。救い主が弱音を吐いたように見える箇所である。
悲惨な十字架刑に処せられ、その苦しみの極みにあったには違いない。しかし、救い主なら、なぜ最後まで福音を語り続けないのだろうか? 逆境の中でも、力強い神のひとり子の姿こそ、私たちの模範になるのに・・・と思ったことがあった。
この箇所は、教会の歴史の中で十分な解釈がすでに行われている。しかし、ある書籍の中に書かれた一人のクリスチャンの言葉が、最も印象深く私の心に残っている。
彼は第二次大戦で南方諸島に出征し、激戦の中、生死の境をさまよい、からくも帰還した経験を持っていた。彼は、食料も、武器もない中、大勢の仲間が死んでいく様子を目の当たりにし、自分も悲惨な死を遂げると覚悟した。
その時、イエス・キリストの「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた言葉が、大きな慰めと支えになったと証ししていた。彼は、自分がどんな悲惨な死を遂げようとも大丈夫だと感じていたという。
もし、イエス・キリストが十字架で悲惨な死を遂げていなければ、彼の支えにはまったくならなかったことだろう。同じ苦しみを味わい、弱音を吐き、痛みを背負った故に、イエス・キリストは彼の救いとなってくださったのだ。
私たちは、とかくインパクトのある力強い言葉を求めたがる傾向にある。そのような言葉が人を励ますような錯覚に陥る。しかし、人が弱さを覚えるとき、同じ弱さを共有する者だけがその人を支えることができる。人を支える隣人になるとは、弱さを共有することなのだろう。
5周年を迎えて
「寄り添わせてください」という願いとともに創設したブレス・ユア・ホーム(株)は、この6月で5周年を迎えた。さまざまな出会いと体験をさせていただいたが、株式会社として成立できるかいまだに見通せていない。
しかし、人々の弱さに寄り添ってくださるイエス・キリストは、私たちの内で溢れるばかりの恵みを、日々備えてくださっている。私たちは、その恵みを今日も携え、日本の各地に出掛けたいと切に願っている。
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