すべての人は神様にこよなく愛されている。当然分かっているつもりだが、通りすがりに出会う人のことを、私たちはほとんど知らない。もう二度と会うことのない人がほとんどなのに、関心を寄せることなく通り過ぎてしまう。
しかし、葬儀の現場に招かれると、出会うはずのなかった人に注がれる神様の大きな愛に触れることがある。故人の生涯は、神様が故人を愛して描いた傑作なのだろう。そんな神様の真実さに感動することも多くなる。
先日、突然の葬儀依頼が広島の葬儀社から入った。通常、地域の葬儀社ではキリスト教葬儀への備えがあまりできていない。今回は、葬儀社が誤ってキリスト教葬儀の手配ができる旨を依頼者に伝えてしまったらしい。葬儀社もいろいろ手を尽くしたようだが、牧師手配ができず、ぎりぎりになって当社を見つけた。
当然、日程の余裕はほとんどない。その時の連絡も、翌日の葬儀司式を依頼する緊急性の高いものだった。私たちのネットワークは徐々に拡大しているが、連携のいまだ不十分な広島地域ということもあり、短時間では司式牧師を見いだすことができなかった。私は、自分の予定をすべてキャンセルして葬儀の準備を始めた。
すでに多くの司式経験を積み、葬儀の形を作り上げることには慣れてきた。しかし、肝心の故人や遺族の情報を短い時間の中で十分に得るのは非常に難しい。
特に当社への依頼者は、教会とは疎遠な方が多く、故人の信仰についてはあまり情報がない。今回も、遺族に電話を差し上げ、キリスト教葬儀を希望される理由を伺ったが、ほとんど情報を得ることができなかった。
翌日、不安を抱えながら、早朝の新幹線で葬儀会場に向かった。到着したのは、葬儀のわずか1時間前だった。早速、葬儀社との打ち合わせを済ませ、故人のご遺体を前にして遺族と初めて対面した。
葬儀を前にして悲しみに沈む遺族には、多くの質問をすることができない。ただ寄り添い、少ない情報の中で神様の御旨に心を向ける時が流れた。
ご遺族は、私のために故人の書かれた小さな手記を用意してくださった。それは、家族のために書き残した短い自分史だった。私は、その手記を手に宗教者控室に入り、祈りながら読み始めた。葬儀開始の30分前だった。
故人は韓国人だった。太平洋戦争の2年前、韓国から日本人男性と結婚するために18歳で来日されていた。戦争による混乱の時代、言葉が分からない日本で苦労を重ねられ、母国に帰れない寂しさに耐えながら、辛抱強く生きてこられた。原爆が投下された焼け野原の広島で、家族を支え、子どもさんたちを育て上げ、今では20人ほどの家族、親族に囲まれていた。
所々に教会や牧師の話も出てきた。信仰を持っておられたことはすぐに分かった。戦前の韓国では、女性が学校で学ぶことはなかったらしい。忙しい毎日を過ごす中、学ぶ機会を得ることなく年を重ねられた。
60歳のころから、生活に少し余裕が生まれ、夜間中学に通われ、学ぶ喜びを初めて体験された。卒業後もさまざまな人生の知恵を学んでいかれたようだ。ご家族をはじめ、関わる多くの皆さんに愛され、感謝と喜びに満ちた余生を過ごされた様子が生き生きとつづられていた。
聖書の言葉もたくさん記されていた。最初の聖句は、「いつも喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝せよ」(1テサロニケ5:16~18)。そして、次の箇所は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)だった。聖歌521番「キリストにはかえられません」も紹介されていた。
私は故人の手記から、神様の深い御旨を感じながら告別式に臨んだ。故人の略歴をご紹介する際には、心が動かされ、涙があふれ、言葉を詰まらせることになってしまった。
神様がどれほど大きな愛をもって故人を捜し出し、その人生に寄り添い、支えてくださったのかを深く心に刻みながら、聖書の言葉からメッセージをさせていただいた。
最後のお別れの時、故人の手記から「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きる」をご紹介した。そして、キリストが墓からよみがえったように、やがて天の御国で、元気な姿で再会することを心より期待して、ご家族と祈りを合わせることができた。
悲しみの中にも、希望に満ちた告別式になったことだろう。やがて天国でご家族が再会するとき、私も故人にお会いしたいものである。
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