競泳女子日本代表で活躍している池江璃花子選手が、自身が白血病と診断されたことをSNS上に投稿したことが話題になっている。難しい病ではあるが、神様の支えが与えられ、ぜひとも回復していただきたいものである。
励ましの言葉
彼女が、その文章の中で「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています」とつづっているが、この言葉は、下記の聖書の一節によく似ている。
神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙第一10章13節)
この聖書の言葉は、逆境の中にも、必ず希望の道が備えられることを示していることから、クリスチャンからの励ましの言葉としてもよく用いられている。
しかし一方で、この聖書の言葉を、文脈を無視して用いると、逆境の中にある人の心を傷つけるだけでなく、神様の御旨とは異なるメッセージを伝えることになり得るので注意したい。
暗闇の中にある希望
まず、この聖書の言葉は、「偶像礼拝を避け、真の神様の真実に頼る」ことを勧める文脈の中で用いられていることに注目したい。つまり、希望をもって脱出の道を見いだし、試練を乗り越えるよう促しているのではなく、脱出の道を備える真実な神様を信頼することを勧めているのである。
よく私たちは、将来の目標を設定してそこに希望を置く。競泳の選手であれば、新記録を打ち立て、メダルを取ることかもしれない。病の中にあるものなら、癒やされ、再び元気な姿に戻ることだろう。そして、その希望があるからこそ、今の試練に打ち勝てると考えがちである。
しかし、実際に試練の中に立たされたとき、その試練の大きさに打ちのめされ、将来の希望を見いだせないことが頻繁に起こってくる。そのような苦しい状況にある人に向かって、将来の希望を指し示し、そこに心を向けさせようとする試みは、神様の御旨ではない。将来の希望でさえ、偶像になり得るからである。
神様は、私たちを愛し、私たちの心の内を知り、最善を与えてくださる方である。試練のただ中では理解できなくとも、神様の深い御旨がその中に必ずある。だから、神様自身に心を向け、神様が示してくださる脱出の道を待ち望むことを、この聖書箇所は勧めているのだろう。
希望の光は、暗闇の中に輝く
ヨハネの福音書1章5節には、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」と記されてある。将来の希望が見いだせないほどの暗闇であったとしても、神様自身が希望の光となって暗闇を打ち消してくださるに違いない。
たとえ、暗闇の深刻さが増し、「死」の陰を通ることになったとしても、私たちを命懸けで愛してくださる神様は、その暗闇のただ中で、希望の光そのものになってくださるはずである。「神は真実な方ですから・・・」とある通りである。
信仰の大盾をもって寄り添う
当社の仕事は、「神様の憐れむ暗闇に、寄り添わせてください」と願う宣教拡大が目的である。とはいえ、毎日のように寄せられる依頼者からの情報は、大変厳しい内容になることが多い。時には、暗闇にのみ込まれそうになることもある。将来の希望を簡単に語ることは到底できない。
しかし、「神は真実な方ですから・・・」と自らにも語り掛けながら、依頼者と共に神様を信頼していきたいと願っている。信仰の大盾をもって寄り添うなら、「悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます」とエペソ6章16節に書かれてあるからである。
試練のただ中にある方が、真実な神様に心を向け、そこに希望の光を見いだすなら、具体的な将来の希望は、最もふさわしいときに、はっきりと見えてくるに違いない。
神様の確かな支えと祝福が、試練の中にあるすべての方々の上に、豊かに備えられるよう心より祈りたい。
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