2019年は、米中貿易摩擦の長期化を懸念する不安な幕開けとなった。今年もさまざまな社会の仕組みが変わることだろう。貧富の差が一層拡大し、貧しい人々の暗闇が増すことのないよう心より願っている。
かつて大企業の研究所に勤務していた私は、新技術がもたらす明るい将来を展望する毎日を送っていた。最先端の華々しさから学ぶことも多かったが、この世の貧しさや暗闇に直接触れる機会は少なく、同時に福音の力強さを、今ほど感じることはなかったように思う。
ホームレスに寄り添う
そのような私が、会社を退職後、全寮制の神学校に入学し、定期的に大阪市西成区にあるホームレスの街に出掛け、彼らの貧しさに触れるようになった。そこに住む人々は、単に薄汚い服を着ているだけではなく、人生の孤独や敗北という暗闇を深く味わっている心の貧しい人たちだった。
自ら希望してホームレスの街に出掛けたはずだったが、彼らと共に時間を過ごし、彼らのために祈っても、私の心は一向に晴れなかった。若い神学生たちが献身的に寄り添う姿を横目で見ながら、私は、ホームレスの人々から一定の距離を置いていた。私の信じている福音は、彼らの暗闇を打ち破れるはずだったが、無力感が日ごとに私の心を覆っていた。
貧しさの中にある彼らを慈しむ神様が、私の内でいつも呻いているような感覚があった。何とかして、神様の心にかなう働きをしたいと願ったが、ホームレスに寄り添えない原因は、実は、私自身の内にある深い暗闇の存在だった。
私はホームレスに向かう働きを、1年ほどで逃げるようにやめてしまった。その時以来、私の内にある深い暗闇は、一層はっきりと自覚できる存在になっていった。
その暗闇の正体は、聖書が伝える「罪」そのものであり、私の肉体と魂を蝕み、「死」に至らせるものだった。それは、ホームレスの人々が抱える孤独や敗北と異なるように見えたが、本質的には同じ道に通じるものだった。私の外見は豊かさをまとえたが、心の貧しさが私を包んでいた。
「死」の暗闇に招かれる
神学校を卒業後、私は高齢者に寄り添う働きに献身した。弱さを覚える高齢者に寄り添い、日本文化に合わせた祈りの場、記念の場を創り出したかった。それらは、高齢者とその家族にとって明るく楽しい場になることを思い描いていた。
ところが、当社に寄せられた連絡の多くは、当初、予定していなかった葬儀式の相談や依頼だった。頼れる牧師のいない方々が「死」の暗闇から、当社を探し出し、面識のない私に連絡を下さるのである。
かつてホームレスの暗闇に寄り添えなかった私は、また、逃げ出したい感覚に襲われるようになった。しかも、未信者の抱える「死」の暗闇に、たった一人で寄り添うことが求められるのである。ハードルは一層高いものになっていた。
内住のキリストの完全な勝利
しかし、私がホームレスに向けた働きで絶望していたことが、逆に良い結果をもたらすことになった。暗闇を心の内に宿す私には、未信者の「死」の暗闇に寄り添う力などどこにもなかった。唯一の希望は、イエス・キリストにすべてを明け渡し、頼り切ることだけだった。
「死」の暗闇から助けを求める未信者の声は、私の信仰に決定的なスイッチを入れた。ホームレスの暗闇には寄り添えなかったが、「死」におびえる未信者から直接招かれたとき、信仰の大盾を持って「死」の暗闇に臨むようになったのである。
また、かつて30年以上の会社生活の中、上司からの指示に従って働いてきたことも功を奏した。職場における上司の指示は、たとえ、どのような状況であっても優先されたため、具体的な指示に敏感に反応する習慣が身に付いていた。
「死」の暗闇から助けを求める未信者の声は、私にとって最善の上司であるイエス・キリストからの大宣教命令として、私の心に強く響いてきた。私は、自らの内にある暗闇の存在にちゅうちょすることなく、信仰によって迅速な対応ができるようになっていった。福音は私の内に、実に大きな現実的な力を備えてくれた。
全国から寄せられる叫びに寄り添って
未信者からの相談や依頼は、私が直接関わることのできない遠い地からも寄せられた。神様は、「死」の暗闇に勝利し、未信者に寄り添える経験豊富な牧師を、当社の連携者として、すでに日本の各地に備えておられた。
激動の2019年、日本では、今年も毎日4千人近い方々が「死」を迎えている。神様の愛を知ることなく「死」の暗闇に向かう多くの未信者からの叫びが聞こえるような気がする。私たちは、その叫びの中から、イエス・キリストの大宣教命令を聞き分け、主の器となって日本の津々浦々にまで福音を携えていきたいものである。
全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。(マルコの福音書16章15節)
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