高齢化、核家族化が急速に進む日本社会では、今後の墓の在り方をめぐる課題が浮き彫りになってきている。明治以降、一般的に建てられてきた「〇〇家の墓」は、家族・親族が墓を守っていくことが前提になっていた。ところが、墓参りをする家族・親族がいなくなり、管理料を払わないと、それらは「無縁墓」というレッテルを張られ、撤去の対象になる。今では、新しく建てられる墓より撤去される墓の方が多くなり、行き場のない墓石が放置される問題が各地で起きている。
家族だけの墓
家族の絆を大切にする日本では、一緒にいる家族や夫婦だけの墓を建てたいと願う気持ちが強い。しかし、経済的にゆとりがあり、後継家族に恵まれた家庭は別として、一般の家庭では、年老いてから墓を建てるには費用の負担が大きい。たとえ建てたとしても、その墓を維持管理する若い家族の協力が得られないことが多い。
血縁を超えた共同の墓
そのような中、夫婦でも先祖でもない人と、一緒に墓に入りたいと考える人が、少しずつ増えてきた。それに伴い、自治体、市民団体、老人ホーム、会社、寺院、教会などが共同墓地を建てるようになった。共同墓地は、家族・親族で墓を継承する必要のない利点があり、特に自治体によるものは永続性が確保されているため人気がある。日本人は共同体を大切にする国民なので、生前に少しでも所属意識を共有していた共同体の墓を選び、生きている者たちとの絆を大切にしたいと考える人が多いのだろう。
維持管理のできない共同の墓
日本の中で大切にされてきた共同体は、家庭と職場である。家族の墓を建てるのが難しいなら、職場のある企業などの墓が次の候補になる。確かに、高度成長時には、企業が相次いで会社関係者のために共同墓地を建てたようだ。しかし、今となっては、そんな余裕のある企業はほとんどない。倒産した企業の共同墓地が寂しく残る場所もある。日本人にとっては、職場は大切な共同体だが、共同墓地を担うには荷が重すぎるようだ。また、お寺や教会の共同墓地も、最近の宗教離れが進む中、決して安泰ではない。存続できない寺院や教会が今後増えてくるだろう。
キリスト教の共同墓地の実態
葬儀文化を担っていた仏教寺院と異なり、キリスト教会の共同墓地の数は非常に少ない。それでも教会員の献金によって、全国各地に小規模な共同墓地が、一般の墓に混じって建てられている。これらの墓は、確かに血縁を超えた墓には違いないが、教会という絆の強い、新たな家族の墓と言っても過言ではない。〇〇家の墓や家族の墓の存続が難しいように、教会の成長が滞り、教会員の高齢化が進むと、このような共同墓地の維持管理も難しくなるだろう。
教会が、所属教会のない信者やキリスト教に理解を示す未信者に、教会の共同墓地を積極的に提供できるなら、墓地の利用を通して、新たな教会成長の展望が開けてくるだろう。ただ、今のところ、ほとんどの教会では、教会外の信者や未信者の遺骨を受け入れる姿勢を示していない。教会家族の墓に教会関係者以外の遺骨が入るのは、他所の家族が入るようなもので、心情的に受け入れられないのかもしれない。
天国を指し示す開かれた共同墓地
日本人は「死んだら天国に行く」と何となく思っている人が多い。人が召されるとき、弱さから解放され、天国に入ることを想い描くのが、現代の日本人の素朴な感覚なのだろう。この感覚に寄り添いつつ、聖書信仰に基づく真の天国を指し示す、開かれた共同墓地を、地域の牧師たちと協力して建築したいと願っている。
キリスト教葬儀を希望される多くの未信者は、生前どこかでキリスト教の死生観や天国に触れた方が多い。葬儀の司式では、故人の信仰歴にかかわらず「神様が故人を天国に導いてくださったことを期待し、やがて天国での再会を待ち望みましょう」とお勧めすることが多い。そのように語ると、聖書になじみのない方であっても同じように願い、祈りを合わせることができる。
キリスト教葬儀は召された直後のただ一度だけだが、「天国を指し示す開かれた共同墓地」は、天国を慕う思いを、長年にわたって遺族と分かち合うことができる。共同墓地を通して未信者に寄り添うなら、やがて多くの人々が聖書に触れ、天国への扉を開いたイエス・キリストに出会うことになるだろう。
もちろん故人が聖書の示す天国に入ったかどうかは誰にも分からない。牧師であってもそこに触れることはできない。しかし、遺族たちは、天の位を捨て人となり、十字架にかかるほどに私たちを愛し、天国への道を開いたイエス・キリストを知り、天国を想い描いてこそ慰めを受けることができる。牧師や教会は信仰を持って遺族に寄り添いたいものである。
このような共同墓地は、生前に所属していた地域教会の共同墓地ではないが、「天国を想い描く」ことを共有した新たな家族の墓地なのだろう。日本宣教は、このようなところから拡大するのかもしれない。
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